序)キリスト教入信の秘跡(洗礼、堅信、聖体)によって、人は新しいキリストのいのちを受けます。ところで、私たちはこのいのちを「土の器に」(二コリ4・7)納めています。今はまだ、このいのちは「キリストとともに神のうちに隠されているのです」(コロ3・3)。私たちはまだ地上のすみかにいて、苦しみや病気や死を免れることはできません。この神の子としての新しいいのちは、罪によって衰弱し、喪失します。
癒やしの秘跡として、ゆるしの秘跡と病者の塗油を挙げることができます。
1 ゆるし
*「告解(ゆるし)の秘跡を受ける者は、神に加えた侮辱のゆるしをあわれみ深い神からいただき、同時に自分たちの罪をもって傷つけた教会、愛と模範と祈りをもって自分たちの回心のために努力している教会と和解します。」
2 秘跡の呼び名
*「回心の秘跡」と呼ばれるのは、それが回心へのイエスの呼びかけであり、罪によって遠ざかった御父のもとに戻る歩みを秘跡的に実現するからです。
*「悔い改めの秘跡」と呼ばれるのは、それが罪を犯したキリスト者の回心、痛悔、償いの個人的および教会的歩みにかかわるからです。
*「告白の秘跡」と呼ばれるのは、司祭の前で罪を告白するのがこの秘跡の本質的要素の一つだからです。この名称の根底には、この秘跡は神の聖性と罪びとに対する神のあわれみとを「告白すること」という意味合いが込められています。
*「ゆるしの秘跡」と呼ばれるのは、司祭による秘跡的なゆるしを介して、神が悔い改める者に「ゆるしと平和」をお与えになるからです。
*「和解の秘跡」と呼ばれるのは、和解させてくださる神の愛を罪びとに与えるからです。「神と和解させていただきなさい」(二コリ5・20)とパウロは言っています。神の慈悲を体験した人は、「まず行って兄弟と仲直りをしなし」(マタ5・24)というキリストの呼びかけにこたえる用意があります。
2 洗礼後の和解の秘跡
*キリスト教入信の秘跡で与えられる神の恵みの偉大さを理解すれば、キリストを着ている者にとって、罪がいかに相いれないものであるかが分かるはずです。使徒聖ヨハネは次のように語ります。「自分に罪がないというなら、自らを欺いており、真理は私たちのうちにありません」(一ヨハ1・8)。キリストご自身、「私たちの罪をゆるしてください」(ルカ11・4)の祈るように教えられました。しかも、私たちが相互にゆるし合うなら、神も私たちの罪をおゆるしになる、といって、この二つのゆるしを結び付けられました。
*私たちは、キリストへの回心、洗礼による新たな誕生、聖霊の賜物、キリストのからだと血の糧によって、「神のみ前で」聖なる者、汚れのない者となりました。しかし、キリスト者となった当初に受けた新しいいのちは、人間本性のもろさと弱さ、ならびに罪への傾きを停止させるわけではありません。この傾きは教会では伝統的に欲情と呼ばれており、受洗者がキリストの恵みに助けられ、キリスト者として生活しながら、この傾きと夕刊に戦うために、洗礼を受けた人々の内にも残ります。この戦いは、聖性と永遠のいのちを目指す回心の戦いです。
3 受洗者の回心
*イエスは回心を呼び掛けておられます。教会は宣教にあたって、この呼びかけをまず、キリストとその教会をまだ知らない人々に対して行います。洗礼こそ最初の基本的な回心の場なのです。
*回心へのキリストの招きは、キリスト者の生活の中でもたえず続けられています。この第二の回心は、教会全体が常に行うべきものです。教会は「自分のふところに罪びとを抱いているので、聖であると同時につねに清められるべきであり、悔い改めと刷新との努力をたえず続ける」のです。この回心の努力は、単なる人間のわざではなく、恵みによって引き寄せ、動かされる「打ち砕かれる心」の動きであって、先に私たちを愛された神の慈愛に答えるものです。
*これを明らかにしているのが、三度キリストを否認した後の聖ペトロの回心です。はかりしれない憐れみを込めたイエスのまなざしを受けて、ペトロは痛快の涙を流し、キリストの復活の後には、キリストへの愛を三度告白します。第二の回心は、共同体的意味合いも込められています。