序)聖体の秘跡でキリスト教の入信は完了します。洗礼によってキリスト者としての歩みが始まり、堅信によってキリストにいっそう似た者、信仰が堅固なものとなり、聖体によってキリストの奉献にあずかります。
1 感謝の祭儀(エウカリスチア)
*感謝の祭儀(エウカリスチア)は「キリスト教生活全体の泉であり頂点」です。「諸秘跡も、また同様にすべての教会的役務も使徒職の仕事もすべては聖体祭儀と結ばれ、これに秩序づけられています。事実、もっとも尊い聖体祭儀の中に教会の霊的富のすべて、すなわち、わたしたちの過越しであり生けるパンであるキリストご自身が含まれています」。
*「神の生命への交わり(コムニオ)と神の民の一致とによって教会が存在するのであって、聖体祭儀はこの交わりと一致を適切に表現し、みごとに実現させます。聖体祭儀は、キリストにおいて世を聖とされる神の働きの頂点であり、さらに、人々がキリストにささげ、またキリストにより聖霊において御父にささげる礼拝祭儀の頂点です」。
*聖体祭儀によって、わたしたちはすでに天上の典礼に一致し、「神がすべてにおいてすべて」(一コリ15・28)となられるときに先立って、永遠のいのちに前もってあずかっています。
*感謝の祭儀は、私たちの信仰の要約であり、頂点です。「私たちの考え方はエウカリスチアに共鳴し、エウカリスチアは私たちの考え方を強固なものにします」。
2 聖体の秘跡の呼び方
*聖体の秘跡の呼び方はいくつかあります。
*「エウカリスチア」と呼ばれるのは、神への感謝の行為です。
エウカリスチア(感謝の祈りを唱える)ルカ22・19、一コリ11・24
★アンティオキア伝承
エウロゲイン(賛美の祈りを唱える)マタ26・26、マルコ14・22
★エルサレム伝承
これらの語は、創造、贖い、聖化という神のみわざを―特に食事の間に―宣言する、ユダヤ人の賛美の祈りを想起させます。
*「主の晩餐」とよばれるのは、受難の前夜にキリストが弟子たちと共になさった晩餐を再現すると同時に、天上のエルサレムで行われる小羊の婚宴に前もってあずかるものだからです。
*「パンを裂くこと」と言われるのは、ユダヤ人の会食に固有なこの儀式を、イエスが、食卓の主人としてパンを祝福して配られたとき、特に最後の晩餐の時に用いられたからです。復活後の弟子たちはまさにこの動作を見てキリストを認識することになりますし、初代教会の信者たちは自分たちのエウカリスチアの集いをこの表現を用いて呼ぶようになるのです。そうすることによって、裂かれたただ一つのパンであるキリストを食べる人々は皆、キリストとの交わりに入り、キリストと結ばれたただ一つのからだを形づくるようになったことを表現するのです。
*「エウカリスチアの集い」(シュナシス)と呼ばれるのは、エウカリスチアは教会を見える形で表す信者の集いで行われるからです。
*「聖なるいけにえ」と呼ばれるのは、救い主キリストの唯一のいけにえを現在化し、教会のささげものを包み込むものだからです。
*「神聖な典礼」と呼ばれるのは、教会のすべての典礼の中心であり、それぞれの典礼が表現しようとしている中身がこの秘跡の挙行の中で最も密度の高い形で表現されているからです。
*「交わり(コムニオ)」と呼ばれるのは、この秘跡によって、私たちはキリストに一致し、キリストはただ一つのからだを形づくるために、私たちをご自分のからだと血にあずからせてくださるからです。
*「ミサ聖祭」と呼ばれるのは、救いの神秘が実現される典礼が、信者が日常生活の中で神のみ旨を果たすことを願った、信者の派遣(ミッシオ)で終了するからです。