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これってどんな種?

そのときという種 年間第30主日(マルコ10・46〜52)

 私たちが「ゆるしの秘跡」に与るときには、まず【糾明】を行います。【糾明】の中で私たちは、自分と向き合い三位一体の神様と会話をし、照らして頂いて、心の奥深いところにある罪への傾きを探っていきます。そして、司祭を通しておん父の【いつくしみの愛】によっての罪の赦しをいただきます。

 きょうのみことばは、イエス様がエリコでバルティアという目の見えない物乞いの目を癒されるという場面です。きょうのみことばの前に、「一行はエルサレムに上る途上にあった」(マルコ10・32)とありますように、イエス様は、「受難と復活」を迎えるために、エリコからエルサレムへ向かおうとしていました。エリコは、エルサレムまで20キロほどで、海抜がマイナス258メートルのところの町です。イエス様と弟子たちは、エリコからエルサレムまで長い坂道を登らなければならなかったのです。

 イエス様は、ご自分がこれから起こる【受難と復活】を前に、まさに心身ともに苦しい坂を登ろうとしていたのでした。そのような時に、ティマイの子でバルティマイという目が見えない物乞いがイエス様から癒されるのです。みことばには、「エリコを出ていこうとされたとき」とあります。バルティマイにとっては、は、【そのとき(救いのとき)】を逃せば、一生光であるイエス様を見ることなく過ごさなければならなかったのです。

 バルティマイは、イエス様がエルサレムへ向かおうとしていた【道端】に座っていました。そして、「ナザレのイエスだと聞いて、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』」叫び始めます。彼にとって【目が見えない】ことは、肉体的な目が見えないということもあるでしょうが、罪の状態を表していると言ってもいいかもしれません。さらに、【物乞い】ですから、人の助けがなければ生きることができないという負い目を持っていたのです。

 バルティマイは、長い間目が見えない「罪の状態」の中で、自分と向き合い、何とかして今の状態から本来の心の状態に戻りたい、と願っていたのではないでしょうか。ですから、彼は、「ダビドの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫ぶことができたのです。しかし、多くの人たちは、彼をしかりつけて黙らせようとします。彼は、叱られ無理やり黙らせられられようとしても、ますます「ダビドの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けます。彼は、一刻も早く罪の状態から抜け出しおん父の方に向かいたいと願い続けていたので、周りからの人的な圧力を受けても、【そのとき】のためには、必死に叫び続ける他には、【救いのとき】がないことを感じたのでした。

 イエス様は、彼の心からの叫び声を聞かれ、立ち止まられ「あの人を呼びなさい」と言われます。きっと、イエス様は彼が「ダビドの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んでいたことが嬉しかったのではないでしょうか。イエス様は、ようやく自分の罪の状態を悔やんで、おん父のもとに戻ろうと決心した、彼の叫び声を待ちわびていたのかもしれません。イエス様にとっても、バルティマイにとっても、この「エリコを出ていこうとされたとき」というのは、二度とありえない【恵みのとき】だったのです。私たちにとって彼のように、「赦していただきたい」という【そのとき】があるのではないでしょうか。そのようなときは、聖霊が全力を尽くして私たちに勇気と恵みを与え助けてくださいます。

 バルティマイは、自分の声がイエス様に伝わったことを知って、「マントを脱ぎ捨て、躍り上がってイエス様のもとに行きます。彼にとって、もう【マント】は、必要がなかったのです。私たちの中には、こだわりであったり、虚栄心であったり、捨てることができない【マント】を持っているのではないでしょうか。パウロは、「わたしはこのキリストの故にすべてを失いました。しかし、それらのことなどは屑に過ぎなかったと思っています」(フィリピ3・8)と言っています。バルティマイにとって、イエス様との出会いは、まさにすべてを失っても、躍り上がるほど喜びに包まれ幸せなことだったのです。

 イエス様は、彼に「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられます。イエス様は、彼の苦しみをご存じだったのでその場でお尋ねにならなくてもよかったのですが、あえて、このような質問を投げかけられます。それは、彼の口から「先生、見えるようにしてください」という言葉を聞きたかったのです。イエス様は、彼の【言葉(告白)】を聞かれて、「よろしい、あなたの信仰があなたを救った」と言われて彼を癒され(赦され)ます。彼は、見えるようになり、【道端】ではなく、おん父へと向かい【道】に戻ってイエス様に従って行きます。

 時として私たちには、この【目が見えない状態】が必要なのかもしれません。それによって【光であるイエス様】に再び出会う【そのとき】をいただくことができるのではないでしょうか。私たちは、深い謙遜な状態の中で【そのとき】に気づくことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

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