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これってどんな種?

頭ではなく「心」でという種

 「鶏が先か、卵が先か」という質問をされたことはないでしょうか。鶏がいないと卵は生まれませんし、卵がいないと成長する鶏もいないわけです。では、今の【私】はどうなのでしょうか。私たちには、両親がいて彼らから生まれてきました。その両親にもそれぞれの両親がいます。このように遡っていくと最後には、おん父にたどり着くのではないでしょうか。私たち一人ひとりは、おん父から生まれ、おん父が結び合わせた人から生まれたと言ってもいいでしょう。

 きょうのみことばは、「離婚の問題」と「幼子を受け入れること」という場面です。イエス様のもとにファリサイ派の人たちが近づいてきて「夫が妻を離縁することは許されていますか」という質問をします。律法学者やファリサイ派の人たちがイエス様に質問する時には、イエス様を試みる時か、彼らの中でも意見が分かれているような問題のようです。その中には、この「離縁」の問題や「律法の中でどの律法が大切か」という問題もあったようです。

 みことばには、「これはイエスを試みるためであった」とありますので、イエス様の答えによっては、イエス様を陥れる口実になるということです。イエス様は、彼らの質問の意図を見抜かれ「モーセはあなた方になんと命じているか」と反対に尋ねられます。もし、イエス様が「離縁してはならない」と言われると「モーセが離縁状を書けば離縁しても良い」というモーセに反対することになりますし、「離縁してもいい」というと離縁する人が増えるという試みだったのです。

 イエス様は、みことばの中でご自分の答えられる前に「では、あなた方は……」と律法学者やファリサイ派の人々に答えを求められることがしばしばあります。ファリサイ派の人々にとって律法は「守らなければならないもの」だったので「行うか」「行わないか」という「義務」や「形式主義的」なものでした。

 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えます。しかし、イエス様は、「離縁」によって苦しむ人、また、お互いに「姦通の罪を犯すことになる」ということを示されるとともに、本来律法が定められたのは、生活の中でいかにおん父の愛に触れるかということを示されます。イエス様は、「神は、創造の初めから、『人を男と女に造られた』。……それ故、神が結び合わせたものを、人間が引き離してはならない」と答えられます。

 フランシスコ教皇は識別についての講話の中のすさみの部分で「残念なことに、すさみに飲み込まれて、祈りの生活や自分の決断を、結婚や修道生活を、断念してしまう人もいます。まずは立ち止まって、そうした心の状態を読み解くこともせずに、そもそも、導きの助けを借りずに決めてしまうのです。」(『識別』カトリック中央協議会刊)で言われています。もしかしたら、モーセの時代もイエス様の時代も丁寧に心の状態を振り返ることなく、すさみの状態で離縁に飲み込まれ離縁する人が多かったのかもしれません。

 ファリサイ派の人たちは、律法を細則に従って生活をしていましたが、それらは、あくまでも律法に反しない生活を送るためで、自分たちが「罪人」になることを恐れていたのかもしれません。イエス様は、そのような彼らの心を指摘して、おん父のみ旨は何であるのか、ということを教えようとされたのでした。

 イエス様たちは家に戻られ、そのことを知った人々は、イエス様の所に幼子を連れてきます。みことばは、「離縁」についてイエス様が話された後に、「幼子」についての教えを書いています。当たり前のことですが、【幼子】は両親がいなければ存在しません。もしかしたら、このことは意識的に組み合わせたのかもしれません。

 弟子たちは、人々が幼子を連れてきて、イエス様に手を触れていただこうとしたのをたしなめます。弟子たちは、イエス様がお疲れにならないようにと思ったのかもしれません。ただ、弟子たちは、「このような幼子の一人を受け入れる者は、わたしを受けいれるのである。」(マルコ9・37)と言われことを忘れていたようです。イエス様は、憤られ「そのままにしておきなさい。幼子がわたしのもとに来るのを止めてはならない。……幼子のように神の国を受け入れるものでなければ、決してそこに入ることはできない」と言われます。このイエス様のみ言葉を見るときにこのフランシスコ教皇が来日した時のミサを思い出します。

 では、この幼子とは、私たちにとってどのような人たちでしょうか。文字通り「幼子、赤ちゃん」という意味にも捉えることができるでしょうが、弱い人、イエス様を頼らなければ生きていけない人のことを指しているのです。前にあったファリサイ派の人々のように頭の中で律法を解釈する人ではなく、無条件でイエス様の愛にすがる人たちでした。イエス様はそのような人たちを受け入れ、「神の国はこのような者たちのものだからである」と言われます。

 私たちは、イエス様に倣い、自分の都合ではなく、周りの人への愛を優先にしてこの【幼子】を受け入れることができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 今を生きるという種 年間第33主日(マルコ13・24〜32)

  2. 僅かな献金という種 年間第32主日(マルコ12・38〜44)

  3. 愛なしにはという種 年間第31主日(マルコ12・28b〜34)

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