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これってどんな種?

すべてを捨てるという種 年間第28主日(マルコ10・17〜30)

 私たちにとって【金持ち】とは何なのでしょうか。以前、田園調布教会に行った時の帰り道に立派な家が立ち並んでいたのを覚えています。きっと、ここの方はお金持ちなが多いのでしょう、と思いました。では、信仰を持つ私たちにとっての真の【金持ち】とは、「天に宝を蓄えること」と言っていいでしょう。

 きょうのみことばは、「金持ちの青年」の話から「一切を捨てることの幸福」ということを教えられる場面です。きょうのみことばは、イエス様が旅に出ようとされると、ある人が走り寄り、イエスの前にひざまずいて尋ねる場面から始まっています。イエス様が行かれようとされているこの【旅】は、エルサレムへと向かう【十字架への旅】だったようです。

 彼は、「善い先生、永遠の命を受け継ぐためには、何をすればよいのでしょうか」と尋ねます。彼は【永遠の命】を得るためには何をすればいいかと常日頃から考え、真剣に思い悩んでいたのでしょう。それで、彼はイエス様の前に「ひざまずき」、「善い先生」と誠意を示して尋ねます。イエス様は、彼に「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はいない。」と言われます。イエス様は、まず、「【善い】という言葉は、天のおん父に対してだけ使うものですよ。」と彼の視線をおん父へと向けさせます。

 続けてイエス様は、「あなたは掟を知っている。『殺すな。貫通するな。盗むな。偽証するな。欺きとるな。父母を敬え』」と言われます。もちろん、この掟は、聖書の世界だけではなく今の時代でも共通の倫理的な掟と言ってもいいでしょう。ですから、イエス様のこの言葉は、洗礼を受けていない人にとっても希望を与えるものなのです。

 彼は、イエス様に「先生、これらのことは小さい時から守っています」と答えます。もしかしたら「そのようなことで『永遠の命』を受け継ぐことができるのですか」と思ったのかもしれません。イエス様は、彼のこの答えを聞かれ、彼を見つめ、愛情をこめて「あなたに欠けていることが一つある。」と言われます。まず、イエス様は、彼の【目】をしっかりと見つめられます。彼はイエス様が自分のことを真剣に思って答えてくださるということを意識し、愛情を持って答えようとされるその温かさを感じたことでしょう。

 しかし、イエス様の「あなた欠けていることが一つある。」と言われた時、「エッ。自分に何が欠けているのだろう。ちゃんと、十戒を守っているのに」と思ったのではないでしょうか。しかし彼は、イエス様の「行って、持っているものをことごとく売り、貧しい人に施しなさい。そうすれば、天に宝を蓄えることになる。それから、わたしに従いなさい」という言葉を聞き、多くの財産を持っていたため、悲しみ、沈んだ顔つきで去って行きます。

 この金持ちの彼と対照的な【金持ち】がいますが、その人は、徴税人の頭である「ザアカイ」でした。彼は、金持ちの青年と違い、罪人というレッテルを貼られ、人々から蔑まれていました。しかし、イエス様に出会って「主よ、わたしは財産の半分を、貧しい人々に施します。誰かから騙し取っていたら、それを4倍にして払い戻します」と言って回心しました(ルカ19・1〜10参照)。

 イエス様は、「財産を持つ者が神の国に入るのは、何と難しいことか。」と言われ、「【金持ち】が【永遠の命】に入ることはできない」と言われているように思われますが、もしかしたら、この世の財産に【固執】しながら【永遠の命】を得ることは難しいと言われているのではないでしょうか。ここでは【金持ち】ということに焦点があるようですが、それだけではなく、イエス様は、たとえ金持ちではなくても、自分のエゴや栄誉など人間的な富に捉われ【固執】していると、同じように自分に従って行くことは難しいと言われているのかもしれません。

 イエス様は、「……らくだが針の穴を通るほうがもっと易しい」と言われ、「人にできることではないが、神にはおできにならないことはないからである」と言われます。イエス様が言われた「らくだが針の穴を……」というのは、当時の「不可能」なことをたとえで表す言葉だったようです。ですから、イエス様は、「人にはできることではないが」とまず言われた後に、「神にはおできにならないことはないからである」と言われ、おん父への信頼の心を促します。

 イエス様は、「……来たるべき代では永遠の命をうける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後の者が先になる」と言われます。イエス様は、自分たちはすべてを捨てて従ったというペトロに、「確かに、すべてを捨てて従ったかもしれないが、迫害に合っても、私を信頼して、謙遜な心で従わないと、後からの人の方が先に天の国に入りますよ」と教えられているのではないでしょうか。

 私たちは、イエス様に従うために洗礼の恵みをいただきました。日々の生活の中で心よりイエス様に信頼し、自分のエゴという財産をイエス様にお返ししながら歩むことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 願うという種 年間第29主日(マルコ10・35〜45)

  2. すべてを捨てるという種 年間第28主日(マルコ10・17〜30)

  3. 頭ではなく「心」でという種

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