私たちは、日常のルールやマナーを守らない人を見ると「呆れて物が言えない」とか「まさか、あの人が……」という言葉で表現することがあります。そのような場合、相手に対しての思い入れや偏見が大いに影響しています。私たちのイエス様への思いは、どうなのでしょうか。私たちの中で「イエス様は完璧なお方なのでこのようなことをなさるはずがない」と思っている部分はないでしょうか。
きょうのみことばは、イエス様が弟子たちに「受難の予告」をされた後、再びそのことを思い起こさせる場面と、イエス様について行く、イエス様を受け入れる人について示された場面です。みことばは、「さて、一行はそこを立ち去り、ガリラヤを通って行った」という節から始まっています。イエス様は、人々に教え、癒すため、また、おん父のみ旨を行うためにいつも方々を歩いておられます。きょうのみことばの前には、ペトロとヤコブとヨハネだけを連れてタボル山に登られ、ご自分が変容したお姿を示され、悪霊に憑かれた子を癒やされた後に再びガリラヤを通られカファルナウムに行かれています。
ただ、今回のイエス様は複雑なお気持ちだったのでしょう。みことばには、「イエスは、それを人に知られることを望まれなかった。」とあります。その理由として、ご自分の最期がどのようになるかを人々に伝えたからでした。いつも、一緒に生活をしている弟子たちでさえ、【受難と復活】を理解することができないばかりか、「尋ねるのを恐れて」いたのです。弟子たちにとっても、イエス様がどのような最期を遂げるかということに触れることが暗黙の禁句となっていたのでしょう。それでも、あえてマルコ福音書には、【受難と復活】のことを示しているは、何か大切な意味があるような気がいたします。
さて、弟子たちは、イエス様がそのようなお気持ちでカファルナウムへ向かわれている間「自分たちの中で誰がいちばん偉いか」と論じ合っていました。イエス様は、「家に入られると」とありますから、たぶん、ペトロの家に入られたのでしょう。そこで、イエス様は、「あなた方は道々、何を論じ合っていたのか」と弟子たちにお尋ねになられます。イエス様は、これから向かう【受難と復活】への道を歩むというお気持ちの中、弟子たちがこのように論じ合っている様をご覧になられてどのような思いになられたのでしょうか。もしかしたら、「イラッ」と思われたかもしれませし、「こんなに長い間、私といるのに何も分かっていない」と呆れてものも言えない気分になったかもしれません。
弟子たちは、「自分たちの中で誰がいちばん偉いか」ということを論じ合っていたことが急に恥ずかしくなったのでしょう。それで、彼らは黙って何も言うことができなかったのです。
私たちは、何かしらの共同体に属していますが、その中で中心的な位置になりたいという欲求が湧いてくることがあることでしょう。もちろん、そのような気持ちを持っている人は、一人ではないのでそこで論争や歪み合いが生じることもあるかもしれません。ヤコブの手紙には、「熱望するが、得ることができませ。そこで争ったり戦ったりするのです。あなた方が得られないのは、求めないからです。求めても与えられないのは、自分の欲望を満足させるために使おうとして、悪い動機で求めているからです。」(ヤコブの手紙4・2〜3)と示しています。
イエス様は、弟子たちが「誰がいちばん偉いか」と論じ合っていたことを咎めるのではなく、「第一の者になろうと望む者は、いちばん後の者となり、またみなに仕えるものとならなければならない」と言われます。このことは、グレゴリウス1世教皇が自らを「神の僕の中の僕」と言われたことを想起させます。私たちは、一人ひとりイエス様の【僕】なのです。そこには「誰がいちばん偉い」と言うことはないのです。
イエス様は、ご自分が言われたことを理解できない弟子たちの前で、一人の幼子を弟子たちの真ん中に立たせ、その子を抱き寄せて「わたしの名の故に、このような幼子の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われます。幼子は、大人の考えで受け入れようとできないことがたくさんあります。私たちはいつの間にか幼子の頃の自由な気持ちを忘れ、社会の常識や形にはまった考えで物事を判断している部分も多々あります。私たちは、まず、幼子の目線で彼らと接することで、改めて幼子を受け入れることができることでしょう。
イエス様は、続いて「また、わたしを受け入れる者は、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わした方を受け入れるのである」と言われます。私たちは、日々の生活の中で幼子のようになられたイエス様を受け入れようとしていますが、いつの間にか、自分の中にある【エゴ】が邪魔をしてしまいます。私たちは、イエス様に「あなたを心から受け入れさせてください。そして、あなたを遣わされたおん父のみ腕の中に抱かれる幼子のようにならせてください」と祈ることができたらいいですね。