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これってどんな種?

エッファタの恵みという種 年間第33主日(マルコ7・31〜37)

 私は、10数年ほど前に「突発性難聴」になり、治療を経たのですが左の耳の聴力がだいぶ落ちある周波数の音はほとんど聞こえないようになりました。そのため、今は人混みの中での会話や声が小さい方との会話は苦手で、何度か聞き直したり、聞こえているようなそぶりをしたりして会話を流していくという困難さを抱えています。私たちは、おん父から創られた体の機能がうまく働かなくなった時、いろいろな面で支障を来すということを感じるのではないでしょうか。

 きょうのみことばは、イエス様が「口がきけず、耳が聞こえない人を癒す」場面です。イエス様は、ガリラヤでエルサレムから来たファリサイ派の人々と律法学者との問答の後、ティルス地方に行かれます。多分、イエス様は、ファリサイ派の人々や律法学者たちの信仰のなさに嘆かれ、逃げるようにティルス地方に行かれたのではないでしょうか。みことばには、「イエスはそこを立ち去り、ティルス地方に行かれた。そして家に入り、誰にも知られたくないと思っておられたが、隠れ通すことはできなかった」(マルコ7・24)とあります。

 イエス様は、このフェニキアで汚れた霊に憑かれた娘を持つ母親の信仰の深さと出会われ、彼女の娘を癒やされます。そのような奇跡を行われた後に、イエス様は、もう隠れるのではなく、ティルス地方を去られ、シドンを経て、ガリラヤに戻り、デカポリス地方に入られます。イエス様がたどられた足跡を地図で辿られると分かりますが、フェニキアもデカポリスも異邦人が多くいる地域でした。ちなみに、デカポリスは今でいうヨルダンになります。

 イエス様は、異邦人が多くいるフェニキアで女性の信仰に触れられ、再びおん父のみ旨を伝えようと、また、ご自分に与えられた使命を果たそうと思われたのでしょう。それも、ユダヤ人たちがいる所ではなく、異邦人がいる所を選ばれて行かれます。このことは、イザヤ書の「闇の中を歩んでいた民は、大いなる光を見た。暗闇の地に住んでいた者の上に、光り輝いた。あなたは国を大きくし、その喜びを増し加えられた。」(イザヤ9・1〜2)とありますよに、イエス様は、ユダヤ人たちにだけではなく、ユダヤ人たちから異邦人と言われ、忌み嫌われている人たちの所に希望の光、喜びの光を与えるために宣教に行かれたのです。

 イエス様がデカポリス地方に入られたことを知った人々は、耳が聞こえず、舌が回らない人をイエス様のもとに連れてきて、その上に手を置いてくださるように願います。この「手を置いてくださるように」というのは、この人を「癒してください」という意味のようです。今でも私たちは、病気や怪我を治療することを「手当をする」と言いますが、まさに、イエス様に【手を当てて頂く】というようにも取れるのではないでしょうか。

 イエス様は、群衆からその人を連れ出され、離れた所でその人の両耳にご自分の指を差し入れ、また、ご自分のつばをつけてその舌に触れ、天を仰いで嘆息し、「エッファタ(開け)」と仰せになられます。イエス様は、まずその人を群衆の所から離れた場所に連れ出されますが、このことは、イエス様との個人的なつながりを意味しているのではないでしょうか。イエス様は、私たち一人ひとりを大切になされ、「あなたの苦しみを癒しますよ」と思われていると言ってもいいでしょう。

 群衆から離れた所でイエス様と対面したこの人は、どのような気持ちだったでしょう。この人は、ようやく自分の病気が癒されると思いながら、イエス様の指が自分の耳に入っていく感覚、指が唇に触れながら舌に触れる感覚をどのように感じたでしょうか。私たちもご自分の耳に、また、舌に指で触れてみるとよりその感覚を味わえることでしょう。

 イエス様は、天を仰いで嘆息し「エッファタ」と言われます。イエス様は、まず、この人のこれまでの苦しみ、聞こえないことの、思ったことを伝えることができない苦しみを嘆かれると同時に、この人を癒して欲しいという人々の信仰の深さを感じられます。そして、天を仰がれ「エッファタ」と言われますが、これからの癒しは、ご自分の力ではなく、おん父の力、お恵みということを示されます。イザヤ書に書かれてある「見よ、お前たちの神を。……ご自身が来られ、お前たちを救ってくださる。その時、見えない人の目は開かれ、聞こえない人の耳は開かれる。」(イザヤ35・4〜5)とありますように、イエス様はご自分がメシアとして来られそのみ業を行ったことを表しているのです。

 この人は、イエス様から癒され、耳が聞こえるようになり、はっきり口がきけるようになります。この奇跡は、私たちの身近な所で起こっているのではないでしょうか。イエス様は、私たちの耳に指を入れられおん父の声を聞けるようにしてくださり、さらに、おん父のみ旨を人々に知らせるように口をはっきりときけるようにしてくださったのです。私たちは、この恵みに感謝して周りの人にみことばを伝えることができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. おん父のみ旨という種 年間第24主日(マルコ8・27〜35)

  2. エッファタの恵みという種 年間第33主日(マルコ7・31〜37)

  3. 義務ではなく愛をという種 年間第22主日(マルコ7・1〜8、14〜15、21〜23)

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