ファリサイ派の人たちは昔の人の言い伝えを固く守り、念入りに手を洗わないと食事をせず、市場から帰ってきた時には身を清めてからでないと食事をしない習慣を身につけていました。当時のユダヤ人は、水が貴重であるにもかかわらず、手のこぶしまで洗っていました。また牢獄で渇死したラビ・アキバ(紀元51年~135年没)は、牢獄で与えられた少量の水を飲まずに、その水で手を洗ったほどでした。いろいろな規定を忠実に実行するところに、彼らの律法遵守が感じられます。
イエスは彼らの心を見抜きます。イザヤ29・13を引用しながら、「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」と語ります。私たちの生活でも、手を抜いて仕事をしたり、いい加減な作業をすると、その不正がいつかは明らかになるものです。
イエスは外面的なことと心の内面的なこととが調和することを語ります。いくら外面的に立派でも、心が離れているとアンバランスです。日本の文化は外国でもよく評価されていますが、「○○道」というのがあります。「柔道」「剣道」「茶道」「華道」など。たんに技術だけではなく、精神性や心の問題をとても大切にします。例えば、「生け花」では、技術的なことよりも、「心を落ち着けて、花に心を生ける」と言われたりします。「茶道」では、単にお茶を飲むだけではなく、姿勢、歩き方、持ち方、拭き方など、心との関わりがあります。柔道でも試合に勝つだけではなく、「精神統一」「道を究める」ことが要求されたりします。外面的な形と心とがうまく調和している「おもてなしの心」に触れることができるのではないでしょうか。時代とともに忘れられがちなことですが、この心を大切にしていきたいものです。