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これってどんな種?

捕らえらえた者という種 年間第21主日(ヨハネ6・60〜69)

 マジシャンは、手品を行うときにタネがわからないように、タネではない見せかけの部分を強調します。ですから見ている人は、そのタネがどこにあるのかを注意深く見るのですが、やはり【タネ】がどこにあるのかわかりません。マジシャンはその驚きのギャップが大きければ大きいほど醍醐味を覚えるのです。

 きょうのみことばは、ペトロが「主よ、わたしたちは誰のもとに行きましょう。……あなたが神の聖なる方であることを信じ、また知っています」という信仰告白をする場面です。ヨハネ福音書の6章は、群衆がイエス様の奇跡や教えに触れ、イエス様の所に集ってくるところから始まり、パンと魚を増やすことによって惹きつけられ、イエス様を自分たちの王としようとする様子や、さらに群衆が、イエス様との問答で「主よ、そのパンをいつもわたしたちにお与えください」(ヨハネ6・34)と懇願する様子を記しています。

 しかし、群衆は、イエス様が「わたしが天から降ってきたパンである」と言われた時から徐々にイエス様を理解することができなくなり、不平や激しい議論に変わっていきます。同じように、イエス様の所に集ってきた人々も、最初は、「【大勢の群衆】」(ヨハネ6・2)から「【群衆】は」(ヨハネ6・22)に、「ところで、【ユダヤ人たち】は」(ヨハネ6・41)となり、そして「【弟子たち】のうちの多くの者は」(ヨハネ6・60)となって段々イエス様の所に来ていた人たちを表す単語も変わっていきます。そして、最終的には「イエスは12人に」とありますように、イエス様がお選びになられた【弟子たち】だけが残るようになります。

 このように見てきますと、ヨハネ福音書の【6章】は、イエス様が行われたさまざまな奇跡や教えから始まって、イエス様がどのようなお方かを示し、最終的には、【イエス様の弟子】として一生涯を捧げるかどうかという【識別】するということを伝えているのではないでしょうか。

 みことばは、「弟子たちの多くの者はこれを聞いて、『これはとんでもない話だ。誰が、こんな話を聞いていられよう』」という言葉から始まっています。このことは、イエス様が「わたしが天から降ってきたパンである」(ヨハネ6・41)と言われたからのようです。ユダヤ人たちは、イエス様がヨセフの息子(ヨハネ6・42)とありますように、イエス様のことをよく知っていました。そのイエス様がご自分のことを「天から降ってきたパンである」と言われたことでつまずき、さらに追い討ちをかけるように「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む人は、永遠の命を得、……」(ヨハネ6・54)と言われたことを聞いて議論をするどころかただ不平を言って「弟子たちの多くはイエスに背を向けて去り、もはやイエスと行動をともにしなくなった」とありますようにイエス様の所から去っていきます。

 イエス様は、ご自分について来た弟子たちに対して「わたしの話があなた方をつまずかせるのか。それでは、人の子が元いた所に上って行くのを見るなら……。」と言われます。ユダヤ人たちは、イエス様が【まことの食べ物・まことの飲み物】(ヨハネ6・55)と言われ、「天から降って来たパンである」と言われ、さらに「このパンを食べる者は、永遠に生きる」(ヨハネ6・58)と言われたにも関わらず、イエス様を理解できずに去って行くのです。

 イエス様は、ご自分の所についてきた弟子たちに残って欲しかったことでしょう。ですから、イエス様は「命を与えるのは霊である。肉には何の役にも立たない。わたしがあなた方に話した言葉は、霊であり、命である」と言われて、さまざまな教えや奇跡がどこから来ているのかを想起させます。しかし、残念ながらイエス様のアガペの愛の言葉も彼らには響きませんでした。

 イエス様は、多くの弟子たちが去って行くのをご覧になられ「まさか、あなた方まで離れて行くつもりではあるまい」と12人の弟子たちに言われます。このイエス様の言葉は、残った弟子たちへの最終的な【確認の言葉】と言ってもいいでしょう。ペトロは、弟子たちを代表して「主よ、わたしたちは誰のもとにいきましょう。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。わたしたちは、あなたが神の聖なる方であることを信じ、また知っています」と答えます。

 ペトロは、イエス様が【神の聖なる方であることを信じ、また知ってしまった】のです。弟子たちは、イエス様の言葉が【霊であり、命である】ことを【信じ】、イエス様について行けば【永遠に生きる】ことを【知った】のでした。パウロは「わたしはキリスト・イエスに捕らえられたのです」(フィリピ3・12)と言っていますが、まさに、弟子たちはイエス様に【捕らえらえた】のでした。

 私たちは、洗礼の恵みをいただき弟子たちのようにイエス様について行くことを【選び】ました。私たちは、弱くて揺れることがあってイエス様から離れそうになりますが、それでも、イエス様の「あなた方まで離れて行くつもりではあるまい」という言葉を思い起こし、ペトロのように信仰告白を絶えずすることができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 今を生きるという種 年間第33主日(マルコ13・24〜32)

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