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これってどんな種?

小さな捧げ物という種 年間第17主日(ヨハネ6・1〜15)

 私が関わっているグループで映画の上映会を企画しました。この上映会を企画するにあたって、劇場を借り人数が一杯になるだろうか、逆に溢れる人はいないだろうか、という心配をしました。結果は、ちょうど良い人数の方で席を埋めることができ、来場されたお客様も満足されて帰られたという体験をしました。今思えば「私たちの小さな捧げ物をおん父は、うまい具合にしてくださる」ということに気がつきました。

 きょうのみことばは、イエス様が「5つのパンと2匹の魚」で5千人もの男たちのお腹を満たされる場面です。みことばは、イエス様がなさった様々な徴(しるし)を見た群衆がご自分の所に着いて来る場面から始まっています。

 イエス様は、弟子たちを連れて山に登られ彼らとともに座られます。聖書の中で指導者が「座る」というのは、人々に「教えを説く」と合図でした。また、【山】は神がおられる神聖な場所と言われていました。ですから、イエス様は、弟子たちにその神聖な場所で特別な教えを伝えられようとされたのです。

 イエス様は、ご自分の所に来る大勢の群衆をご覧になられフィリポに「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」と言われます。みことばは、この後に「フィリポを試すために、こう仰せになったが、自分では何をしようとしているかを知っておられた」とあります。私たちは、イエス様が何をしようとするかを知っていながらフィリポを【試された】と聞くと、なんだか不思議な感じを受けます。この【試す】という言葉の中に【試練(荒み)】という意味があるのではないでしょうか。フィリポは、これだけの群衆のお腹を満たす手段など「不可能」と思っていました。今風に言えば、「無茶振り」をされたと言ってもいいのかも知れません。イエス様の意図は、フィリポの信仰を強めるためにあえて彼に【試練(荒み)】をお与えになったのです。

 フィリポは、イエス様に「めいめいが少しずつ食べるためにも、200デナリオン分のパンでは、足りないでしょう」と答えます。1デナリオンはローマの通貨で「1日分の労働者の賃金」でした。仮に東京都の時給を1,500円として8時間働いたとすると12,000円となります。このことを200デナリオンに当てはめると、240万円相当の金額になります。フィリポは、「これだけの高額なお金でパンを買って、『少しずつ食べさせても』【足りない】と」言っているのです。

 イエス様とフィリポが話しているときに、シモン・ペトロの兄弟であるアンデレがイエス様に「ここに、大麦のパン5つと魚2匹とを持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人では、それが何になりましょう」と言います。「焼石に水」という諺がありますが、200デナリオンでも足りないのに、「大麦のパン5つと魚2匹」では、まさに「焼石に水」ということになります。「大麦のパン5つと魚2匹」の食べ物を差し出した少年は、イエス様が困っているのを見て、自分の小さな捧げ物でも役に立てばと思ったのかも知れません。しかし、それを受け取ったアンデレは、「これっぽっちの食べ物で、この大勢の人のお腹を満たすのは無理だよ」と思いながら少年が差し出したものを預かります。この少年は、自分が食べようとして準備をしてきたすべてものを差し出したのにそれを受けたアンデレの様子を見て傷ついたことでしょう。

 イエス様は、そのパンを取られ、(神に)感謝の祈りをささげ、座っている人たちに分け与えられます。同じように魚も欲しいだけ与えられます。すると、群衆のお腹を満たして尚且つ余ったパン切れが【12の籠がいっぱいに】なるほどになったのです。この奇跡は、カナの婚礼で水をぶどう酒に変えられたことを想起できるのではないでしょうか(ヨハネ2・1〜11参照)。婚礼に招かれた客は、出されたぶどう酒を飲むだけで、それまでの経緯は知りませんでしたし、きょうのみことばの奇跡にしても、知っているのは少年と弟子たちだけです。群衆は、ただイエス様から渡されたパンと魚を手にして食べただけでした。

 このことを目の当たりにした弟子たちは、自分たちの人間的な思いの小さささ、信仰の弱さに気づくとともにおん父の業(アガペの愛)の偉大さを実感したのではないでしょうか。イエス様は、弟子たちの信仰を強めるとともに、自分の小さな食べ物を差し出した少年の心をも癒されたのです。この奇跡は、群衆のお腹を満たすだけではなく、【おん父の業】を神聖な【山】で伝えるという深くて大切な【教え】をイエス様が弟子たちに伝えられたのです。

 私たちは、目の前に【困難】な事柄があると、始める前から【不可能】と思って尻込みをしがちです。しかし、きょうのみことばは、その【不可能】と思う私たちの心に【希望】と【勇気】を与えてくれるのではないでしょうか。おん父は、私たちの【小さな捧げ物】を使って【偉大な業】を起こされます。私たちは、このことに信頼して自分の【小さな捧げ物】を差し出す勇気を持つことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. エッファタの恵みという種 年間第33主日(マルコ7・31〜37)

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