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これってどんな種?

休むという種 年間第16主日(6・30〜34)

 私の母は、私が小学生の頃その日にあったいろいろな事をゆっくり聞いてくれました。今、考えると母は、「聞き上手だった」のだと思います。そして、今度は、私が修道院に入ると母の話を聞くようになりました。私たちは、自分のことをゆっくり聞いてもらうことで安心し、元気をもらうのではないでしょうか。

 きょうのみことばは、弟子たちが宣教から帰ってきてイエス様に報告する場面です。彼らは、杖一本と履き物は許されましたが、パンも袋も、小銭も持たず、野宿のために下着を2枚着ないようにと言われて、2人一と組になって宣教に出かけました。それは、おん父への信頼のうちに宣教するためでした。また、2人ずつに出かけたのは、1人では乗り越えられない時でも、2人では可能になったり、お互いに励まし、支え合ったりとできるという理由もあったのでしょう。弟子たちの教えを受けた人々は、彼らの教え、生き方の中に「律法学者のようにではなく、権威ある者のような姿」(マルコ1・22)を見出したことでしょう。

 きょうのみことばは、「さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」という一節で始まっています。弟子たちは、イエス様の教えを忠実に守って「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・15)と人々に説くとともに、病人や汚れた霊に憑かれた人を癒します。人々は、弟子たちの教えを熱心に聞き、また、癒されたことに感謝したのではないでしょうか。

 弟子たちは、今までイエス様がなさったことを、今度は、自分たちが行うことでさまざまな体験や出来事で感動したことの思いの丈をイエス様に伝えたのです。きっと、弟子たちは自分たちが体験をしたことを、お互いに分かち合ったことでしょう。ルカ福音書の中にも宣教に出かけた弟子たちがイエス様に報告する場面がありますが、そこでは、「72人は喜んで帰ってきて言った、『主よ、お名前を用いると、悪霊どもでさえ、わたしたちに服従します』」(ルカ10・17)と報告しています。イエス様は、彼らの報告の後に「むしろ、あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10・20)と言われます。

 イエス様は、弟子たちが宣教で体験した恵みの報告をゆっくり聞かれ、ただその喜びに浸るだけではなく、おん父も喜ばれていることを伝えられたのではないでしょうか。さらに、「天に書き記される」ということは、宣教の業をおん父にお捧げする、お返しするという意味も含まれているのかもしれません。このことは、宣教に出かけた時の【しるし(奇跡)】が、自分たちの能力ではなく、おん父から頂いたものということを忘れないようにと、「謙遜な心で宣教しなさい」と言われているのではないでしょうか。

 イエス様は、「さあ、あなた方だけで人里離れた所に行き、そこでしばらく休みなさい」と使徒たちに言われます。イエス様は、彼らが興奮して話す気持ちを落ち着かせるため、また、おん父と向き合う時間を作るために、そのように言われたのでしょう。修道院では、一日の使徒職を終えた夕方に聖体訪問をしています。その中では、みことばを黙想したり、糾明をしたり、時には自分の至らなかったところや愚痴などもこぼすこともありますが、私と聖体の中におられるイエス様との時間を持っています。このように、忙しさで疲れている心と体を落ち着かせて、おん父へと向かう時間は、宣教するために必要なことなのです。

 みことばは、「出入りする人が多く、食事をする暇さえなかったからである」とあります。もしかしたら、弟子たちの教えを聞き、汚れた霊を癒された人々が、彼らと一緒にイエス様の所に来ていたのかもしれません。ですから、弟子たちは、休む暇もなく、宣教の延長でついてきた人々との対応に追われていたのでしょう。イエス様は、そんな弟子たちの様子をご覧になって心配されたのです。

 イエス様と弟子たちだけで舟に乗って人里離れた所に【休む】ために行きます。私たちは宣教する中で、意識しなくても知らず知らずのうちに疲れを溜め込んでしまうことがあります。そのためにも、【休む】ことは大切になってきます。ヴァイオリンを弾くのが上手い神父様が「ヴァイオリンを弾いた後は、必ず弓や弦を緩めるのです。そうしないと切れてしまうのです」と教えてくださいました。この【緩ませる】ということと【休む】ということは、同じことで新たな宣教に出かけるためにも、私たちの心を【休ませる】ことが必要不可欠なのです。

 さて、人々は、イエス様と弟子たちだけで出発されたことに気づき、急いで追いかけ、イエス様たちより先に着いて待っていました。イエス様は、彼らをご覧になって、牧者のいない羊のようなありさまを、憐れに思い、いろいろと教え始められます。その間、弟子たちはイエス様のご様子を見ながら、群衆の世話をし、イエス様の教えを聞きながら自分たちが宣教してきたことを振り返ったことでしょう。私たちは、まず、自分たちの【宣教の実り】を感謝するとともに振り返るために【休む】ことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. エッファタの恵みという種 年間第33主日(マルコ7・31〜37)

  2. 義務ではなく愛をという種 年間第22主日(マルコ7・1〜8、14〜15、21〜23)

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