書籍情報、店舗案内、神父や修道士のコラムなど。

これってどんな種?

宣教に出かけるという種 年間第15主日(マルコ6・7〜13)

 最近面白い体験をいたしました。それは、私がスマートフォンを食堂に忘れてきたということです。今の時代は、スマートフォンがなくてはならないアイテムの一つとなっています。スマートフォンがない1日は、とても不安で落ち着かず、物事に集中できなかったのを覚えています。イエス様は、私たちを宣教に派遣するときに「スマーフォンは持たないように」と言われるのかもしれませんね。

 きょうのみことばは、イエス様が12人の弟子たちを派遣する場面です。この派遣の前は、イエス様が弟子たちと共に故郷であるナザレに行き、会堂で人々に教えたのですが、彼らは、イエス様を受け入れませんでした。

 きょうのみことばは、「また、イエスは村々を回って教えておられた」という言葉から始まっています。イエス様は、ナザレでの宣教を終えてからその付近の村々で弟子たちと共に宣教されます。イエス様は、ナザレで受け入れられなかった体験を弟子たちとともになされ、その傷がまだ癒されないまま彼らとともに宣教されたのです。そのような中イエス様は、12人を呼び寄せ、2人ずつ宣教に遣わすことを始められます。

 マルコの福音書の3章でイエス様は、弟子たちを選ばれる場面があります。その箇所には「ご自分の望む人たちを呼び寄せられた。彼らはイエスのもとに来た。このように、イエスは12人を選び、使徒とお呼びになった。それは、この12人がご自分とともにいるためであり、また、悪霊を追い出す権能を授けて宣教に遣わすためであった」(マルコ3・13〜15)とあります。イエス様は、まず、【ご自分が望む人たち】を呼ばれたのです。それは、イエス様が【彼らとともにいる】ためだったのです。

 イエス様が望まれて選ばれた使徒の中には、漁師であったり徴税人であったり、ローマの支配に反対するような熱心党がいたり、ご自分を裏切る者もいたのです。そして、イエス様は、そのようは彼らと【ともに】おられることをお望みになられたのでした。イエス様は、彼らとともに生活され、信仰について、神の国について教えられ、悪霊を追い出され、出血病の女性を癒され、亡くなった少女を生き返らせ、時には、ファリサイ派の人々や律法学者たちを厳しく指摘されるなど、宣教に必要なことを彼らとともに実践されたのです。

 イエス様は、ご自分と【ともに】生活してきた彼らを再び【呼び寄せ】2人ずつ宣教に遣わすことを始められます。イエス様は、ご自分のもとにお呼びになった彼らが、それぞれの場所に行って【宣教】できるようにご自分がまず、弟子たちを養成されそして派遣されたのです。それは、彼ら一人ひとりを自立させるためであり、ご自分が十字架上で亡くなられ、復活した後でも使徒として宣教することができるためでもあったのです。

 イエス様は、彼らを宣教に派遣するにあたってまず、「汚れた霊に対する権能」を与えられます。このことは、イエス様が弟子たちをお選びになられた大切な目的の一つでした。それは、おん父から離れて行った人たちを再び戻されるということにつながるからです。汚れた霊は、私たちをおん父から離そうとして誘惑をしてきます。ですから、イエス様は、【汚れた霊に対する権能】を弟子たちにお与えになられたのです。このことは、洗礼の恵みを頂いた私たち一人ひとりに対しても同じ権能を下さっておられるのです。

 イエス様は、彼らに「杖」と「履き物」を持っていくことを許されます。そのほかは、「パンも袋も、帯の中の小銭」を持っていくことは許されませんでした。さらに「下着は2枚着ないように」と戒められます。この下着に関しては、野宿するのではなく、自分たちを泊めてくれる家に留まるということのようです。イエス様は、宣教に行くためにはすべてにおいて、自分の力、持ち物に頼るのではなく、おん父への全幅の信頼を持つように、また、最小限での身なりで宣教するように弟子たちを派遣されたのです。

 イエス様は、「あなた方を歓迎せず、あなた方の言うことを聞こうともしないところがあったなら……」と言われます。これは、彼らにとってナザレでの体験を想起されることではないでしょうか。イエス様は、【宣教】という恵みあることでも、それを受け入れない人もいるということを弟子たちに伝えようとされたのです。

 洗礼の恵みを頂いた私たちは、弟子たちと同じように、【宣教】するために【派遣】されているのです。私たちは、この使命をどのように行なっているでしょうか。私たちは、知らず知らずのうちに持ち物が増え、おん父への信頼ではなく自分の力を過信し、人との繋がりを遠ざけているのかもしれません。今一度、宣教に際して必要なものを見直すとともに、イエス様が私たち一人ひとりと【ともに】いたいとお望みになられて【呼び寄せられた】ということを思い出して、イエス様とともに【宣教】に出かけることができたらいいですね。

  • 記事を書いたライター
  • ライターの新着記事
井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. エッファタの恵みという種 年間第33主日(マルコ7・31〜37)

  2. 義務ではなく愛をという種 年間第22主日(マルコ7・1〜8、14〜15、21〜23)

  3. 捕らえらえた者という種 年間第21主日(ヨハネ6・60〜69)

RANKING

DAILY
WEEKLY
MONTHLY
  1. 1
  2. 2
  3. 3
  1. 1
  2. 2
  3. 3
  1. 1
  2. 2
  3. 3

RECOMMEND

RELATED

PAGE TOP