私たちは、周りの人に対して見た目で判断し、偏見や先入観で相手のことを見るような傾きを持っています。ただ、このような「偏見」や「先入観」は、往々にして、「私の気持ち」で相手を判断し、その人の本質を見る【目】を曇らせてしまい、【私】の思いでその人を見てしまうという危険性があるのです。
きょうのみことばは、イエス様が弟子たちと共に郷里であるナザレに行かれた場面です。イエス様は、カファルナウムで「出血病の女性」を癒され、続いて「会堂司ヤイロの娘」を救われました。彼らは、自分自身と向き合い、ヤイロは、「死にかかっている娘を救ってください」と願い、また出血病の女性は「イエスの衣にさえ触れることができれば、救われるに違いないと思って」、イエス様の衣に触れました。この二人に共通するのは、【強い信仰】と言うことです。
このような奇跡を行なわれた後、イエス様と弟子たちはナザレに行かれます。ちょうどイエス様がナザレに滞在しているときに、安息日になったので会堂で教え始められます。イエス様は、人々をおん父の方に向き直すためにたびたび会堂で教えていたようです。マルコ福音書には書かれてありませんが、ルカ福音書には「安息日に、いつものとおり会堂にお入りになった」(ルカ4・16)とあります。ナザレの人々は、イエス様の教えに【聞き入り】驚きます。彼らは、小さい頃のイエス様のことをよく知っていましたし、もしかしたら、彼らの中には、イエス様と一緒に遊んだ友達もいたことでしょう。ですから、イエス様がどのような話をするのか興味があったのではないでしょうか。彼らは、イエス様の教えを聞き【驚き】ます。
しかし、その【驚き】は「この人はどこからこういうことを授かったのだろう。このような力ある業さえ行う知恵を持っているとは。」という【疑問】に変わります。彼らにとってイエス様は、「大工の子」であり、「マリアの子」であり、その兄弟、姉妹たちも自分たちと一緒に身近にいる「近所の子」だったのです。彼らは、あまりにもイエス様のことを知っているので、「あの大工の子がこのような、教えや奇跡を行えるはずがない」と思ったことでしょうし、少し前ではイエス様が「気が変になった」と聞いてナザレに連れ戻そうともしています(マルコ3・21参照)。
このように、ナザレの人々は、イエス様がなさっている奇跡や教えを耳にしていましたが、実際に会堂で目の当たりにした時に、改めてイエス様の教えに対して【驚き】ます。しかし、その驚きは、【つまずき】に変わってしまうのです。彼らは、イエス様の教える力が「どこから授かったのだろうか」という疑問を深く掘り下げることができずに、自分たちの【身内】ということだけに留まってしまったのです。彼らは、みことばにあるように「このような力ある業さえ行う知恵を持っているとは」と言っています。この中にある「力ある【業さえ】」という中には、「『大工の子』がこのような業や教えを行えるはずがない」とイエス様がなさっている業を否定し、【神の子】という所までに至らなかったのです。
イエス様の教えや奇跡は、ご自分のために行なっているわけではなくおん父の【アガペの愛】を伝えるためでした。イエス様は、ご自分を通しておん父のみ旨を人々に教え、人々がおん父の方に向き直ることを望まれていたのです。残念ながらナザレの人々は、イエス様の教えや業に触れるのですが、おん父へと向き直ることなく、自分たちの【次元】に留まってしまったのです。このような頑なな状態では、目の前の恵みに対して【本質】を見ることができず、どうしても【私の考え、私の知識】に頼ってしまう危険性があるのです。
イエス様は、彼らに対して「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族の間、またその家においてだけである」と言われます。イエス様のこの言葉を聞いた弟子たちは、どのように思ったでしょうか。今まで、イエス様の周りでは、奇跡や教えを聞いて癒された人たちばかりで喜びに溢れていました。しかし、ナザレではイエス様に対して冷たい視線や「このようなことができるはずがない」という否定的な感情に対して驚いたことでしょう。この後、イエス様は、弟子たちを派遣される場面となります。弟子たちは、イエス様が人々の信仰のなさに嘆かれたような所に派遣される場合もあることを実感したかもしれません。
イエス様は、人々の【不信仰】に驚かれ、少数の病人に手を置いて癒されただけで、何も奇跡を行うことがおできになりませんでした。イエス様は、人々を癒しおん父へと向かわせることがおできになれず悲しい思いをされたことでしょう。おん父の愛は、たとえ、ご自分の子を受け入れることができない人々の所にでもイエス様を派遣されることなのです。私たちは、このおん父のアガペの愛を人々に伝える使命をいただいています。私たちは、先入観や偏見にとらわれることなく、相手の中におられるイエス様を見つけるとともに、私たちもイエス様と共にみことばを伝えていくことができたらいいですね。