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これってどんな種?

嵐に遭ってもという種 年間第12主日(マルコ4・35〜41)

 私たちの人生は、いつも「順風満帆」とはいきません。「うまくいくだろう」と思っていても、時々イレギュラーな事が起こってしまいます。そのような時にどのように対処していくか、というのが私たちに問われているのではないでしょうか。洗礼の恵みをいただいている私たちは、そこに主への信頼があるという強い信仰が助けとなるのです。

 きょうのみことばは、イエス様がガリラヤ湖で嵐を鎮める場面です。マルコ4章では、イエス様がいくつかの喩え話を用いて人々に教えられますが、これらの教えは全て舟の中から話されています。4章の最初は、「さて、イエスは再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が集まってきたので、イエスは湖上の舟に乗り、座っておられた。」(マルコ4・1)とあります。ちなみに、ラビが人々に教える時には、【座って】いたようです。

 イエス様は、群衆に向かっていくつかの喩えを用いて信仰についての話をされ、時間が経つのを忘れて夕方になるまで教えられていました。それで夕方になったのを気づかれたイエス様は、弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われます。

 イエス様は、食事をする暇がないほど、ペトロの家で人々に教えられ、また、人々を癒され(マルコ3・20参照)、再び、湖のほとりで人々に教えられます(マルコ4・1参照)。イエス様が活動されていたのは、ユダヤ人たちの地域でした。しかし、きょうのみことばで「向こう岸に渡ろう」と言われたのは、【異邦人】が住んでいる地域へ向かうものでした。イエス様は、舟を使ってガリラヤ湖のいくつかの町を回られ人々に教えたり、癒されたりされていたのです。このように見ていきますと、舟というのは【教会】と言ってもいいのかもしれません。舟である【教会】は、イエス様を中心にしていろいろな所に出かけ、人々をおん父のもとへの導くという役割を果たしているのです。

 イエス様を乗せた舟が「向こう岸」に向かって出発するや否や、激しい突風が起こり、波が舟の中まで襲いかかり、舟は水浸しになってしまいます。聖書の中で「海」や「湖」というのは、悪魔が住む場所と言われていました。ですから、イエス様が「向こう岸」で福音を伝えようとするのを、悪魔が邪魔をして突風を起こさせ、舟が水浸しになるほどの波を起こさせたのではないでしょうか。それほど、悪魔はイエス様の活動を恐れていたのです。

 みことばでは、向こう岸のガラサ人の住む地域で、一人の汚れた霊に憑かれた人をイエス様が癒されていますので、悪魔にしてみれば自分たちの邪魔をされたことになるのです(マルコ5・1〜20参照)。確かに、ガリラヤ湖は、三方が岸に囲まれ高い岩壁から時折吹きおろしが起こり激しい突風が起こっていたようです。きょうのみことばは、自然の中で起こる、突風や波のうねりを使ってイエス様の教え、そこからの恵みを伝えようとしているのではないでしょうか。

 ここで注目したいのは、「波が舟の中まで襲いかかり、舟が水浸しになった」という箇所です。悪魔は、教会である【舟】の中にも襲いかかり、その影響で【水浸し】になるということを示していのでしょう。私たちは、そのような【教会】の中にいるということを意識して、私たち一人ひとりがいかに三位一体の神様につながっているかということが問われているのかもしれません。

 さて、嵐は収まるどころかますますひどくなってきて、舟は揺れ、水浸しになり今にも沈みそうになってきたのでしょう。この嵐は、漁師である弟子たちでさえ死の危険を感じるほど動揺し、恐れてしまうほど激しいものだったようです。弟子たちは、艫(とも)のほうで枕をして眠っておられるイエス様を起こし、「先生、わたしたちがおぼれ死んでも、かまわないのですか」と言います。イエス様は、起き上がられ風を叱りつけ、湖に向かって「黙れ、鎮まれ」と言われると、風はやみ、大凪(おおなぎ)になります。イエス様は、どのような【嵐】の中でも枕をして眠られるほどおん父に信頼されていました。ですがイエス様は、弟子たちが恐怖を抱く様子をご覧になられ、悪魔が起こした災いに対して「黙れ、鎮まれ」と言われたのです。このことは、私たちの「教会共同体」の中でも言えることなのかもしれません。私たちは、今の私を謙遜な気持ちで見つめ直す時間を持ってもいいのかもしれません。

 イエス様は、弟子たちに「なぜ、そんなに恐れるのか。まだ信仰がないのか」と言われます。舟の中での出来事は、弟子たちの動揺とイエス様のおん父への信頼という二つの対照的な様子が描かれています。このことは、改めて私たち一人ひとりに響くことではないでしょうか。おん父は、時折、困難をお使いになられ、私たちの信仰を強められます。それは、私たちが困難を乗り越えご自分の方へ向かうことができるためでもあるのではないでしょうか。私たちは、どんな困難にあってもおん父への信頼を忘れずに、たとえ【嵐】の中でもイエス様と共に歩んでいくことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 今を生きるという種 年間第33主日(マルコ13・24〜32)

  2. 僅かな献金という種 年間第32主日(マルコ12・38〜44)

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