序)自分の死をイエスの死に結び付けるキリスト者は、死をキリストのもとへ行き、永遠のいのちに入ることとみなします。教会は臨終のキリスト者に、これを最後としてキリストのゆるしのことばを唱え、力を与える信仰を固め、旅路の糧としての聖体のキリストを授けた後、愛情のこもる確信をもって臨終者に語ります。
「キリスト者の魂よ、あなたを造られた全能の父よ、あなたのために苦しまれた生ける神の子イエス・キリストと、あなたのうちに注がれた聖霊とのみ名によってこの世を去りなさい。今日、平安のうちに憩い、聖なるシオンで神と神の母乙女マリア、聖ヨセフ、諸天使、神のすべての聖人とともに終わりなくとどまりなさい」
1 私審判
*人生というものはキリストのうちに現わされた神の恵みを受け入れることも拒否することもできる期間ですが、死はこれに終止符を打つのです。新約聖書は、裁きについて再臨されるキリストとの最終的出会いを背景に語っていますが、各自が死の直後にそれぞれのわざと信仰とに応じて受ける報いについても、繰り返し明言しています。貧しいラザロのたとえや回心した犯罪人に向けた十字架上のキリストのことばは、新約聖書の他の箇所と同じように、霊魂の最終的な行く末がそれぞれに異なることを語っています。
*人は死んだらすぐ、人生におけるキリストとのかかわりあいについての私審判の結果に基づき、その不滅の霊魂において永遠の報いを受けます。それは、清めを経た上で天の至福に入るか、あるいは直接に天の至福に入るか、あるいは直ちに永遠の苦しみ(罰)を受けるかの、いずれかです。
2 天国
*神の恵みと神との親しい愛のうちに死に、完全に清められた人々は、キリストと共に永遠に生きます。この人々は永遠に神に似た者となります。神を「ありのままに」「顔と顔とを合わせて」見るからです。
*イエス・キリストは、死と復活とによって、私たちに天国を「開かれました」。至福者たちのいのちは、キリストが成し遂げられた贖いの実りを余すところなく享受することにあります。キリストは、ご自分を信じ、み旨に忠実であった人をご自分の天上の栄光に加えられます。天国とは、キリストに完全に合体したあらゆる人のこの上なく幸せな共同体なのです。
3 煉獄
*神の恵みと神との親しい交わりとを保っていながら、完全に清められないままで死ぬ人々は、永遠の救いこそ保証されているものの、死後、天国の喜びにあずかるために必要な聖性を得るよう、あと浄化の苦しみを受けます。
*教会は、永遠にのろわれた人たちの苦しみとは全く異なる、選ばれた人が受ける最終的浄化を、煉獄と呼んでいます。教会は煉獄に関する信仰の教えを、特にフィレンツェ公会議とトリエント公会議で表明しました。教会の伝承では、聖書の若干の箇所に基づいた、「清めの火」というものを取り上げています。
4 地獄
*私たちは自由意志をもって神を愛することを選ばない限り、神に結ばれることはできません。しかし、神に対し、隣人に対し、あるいは自分自身に対して大罪を犯すならば、神を愛することはできません。「愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠のいのちがとどまっていません。」(一ヨハ3・14~15)痛悔もせず、神の慈愛を受け入れもせずに、大罪を犯したまま死ぬことは、私たち自身の自由な選択によって永遠に神から離れることを意味します。自らと神と至福者たちとの交わりから決定的に離れ去ったこの状態を、「地獄」ということばで表現するのです。
*教会は、地獄の存在とその永遠性とを教えています。大罪を犯したまま死ぬ人々の霊魂は、死後直ちに地獄に落ち、そこで、「地獄の苦しみ(永遠の火)に耐えなければなりません。そもそも、人間はただ神のうちにおいて、自分が造られた目的であり願望の的であるいのちと幸せとの得ることができるのですが、地獄の苦しみの中心となるのは、この神との欠別の状態が永遠に続くということになるのです。