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カトリック入門

第164回 死について【動画で学ぶ】※レジュメ字幕付き

序)人間にとって、「死」は必ず訪れるものです。「死を前にして初めて、人間の条件についてのなぞは頂点に達します」。ある意味で、肉体の死は自然なことですが、信仰の立場から見ると、「罪が支払う報酬」(ロマ6・23)なのです。また、キリストの恵みのうちに死んでいく人にとっての死とは、キリストの復活にあずかることができるためにキリストの死にあずかることなのです。
*植物状態の方への洗礼
 ほとんど反応がない。家族の方から洗礼を授けてほしいという要望。
 洗礼を授けた後、目から涙が出ていた。ちゃんと反応しているのを感じた。

1 死はこの世のいのちの終わり
*私たちには寿命があって、その間私たちは変わり、老いていきます。そして、この世のすべての生物にみられるように、いのちの終わりには当然死がやってきます。死のこうした面は、私たちの人生に、ある緊張感を与えます。つまり、死を思うとき、私たちは自分の人生を全うするために限られたひとときしか持たないことに気づきます。
*人間は死すべき本性を持っているにもかかわらず、神は人間を不死に定めました。死は創造主である神の意図に反するもので、罪の結果としてこの世に入ってきました。「人間が罪を犯さなかったならば、それを免れたはずの」肉体的死は、人間の打ち勝つべき最後の敵(一コリ15・26)なのです。
*死はキリストによって変質されました。神の子であるイエスもまた、すべての人が負うべき死を受け入れられました。しかし、死を前にして恐れながらも、イエスは御父のみ旨に対する全面的で自発的な服従によって死を受容されました。イエスの従順が、死ののろいを祝福に変えたのです。

2 キリスト教的な死の意味
*キリストのおかげで、キリスト教的死は肯定的な意味を持つことになります。「私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(フィリ1・21)。
 「次のことばは真実です。『私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる』(二テモテ2・11)
*キリスト教的死の本質的な新しさとは、キリスト者は新しいいのちに生きるためにすでに洗礼によって秘跡的には「キリストともに死んで」おり、私たちがキリストの恵みのうちに死ぬならば、肉体的な死はその「キリストと共に死ぬこと」を完遂(かんすい)し、私たちをキリストの贖いの業に完全に組み入れるということです。
*死において、神は人間をご自分に呼び寄せられます。ですから、キリスト者は死に対して聖パウロと同じように、「この世を去って、キリストとともにいたいと熱望」(フィリ1・23)することができます。そして、キリスト者は自分の死を、キリストにならって、御父への従順と愛の行為に変えることができるのです。
*死に関するキリスト教的な見方は、教会の典礼にすばらしく表現されています。
 「信じる者にとって、死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠の住みかが備えられています」。
*死は地上における人間の旅路の到着点であり、神が人間にお与えになる恵みとあわれみの時の終わりです。人は自分の人生を神の意図に沿ってまっとうし、また行く末を決定しなければなりません。「わたしたちの地上生活の一回限りの行程」が終わると、私たちは、別の人生を生きるためにこの世に戻ることはありません。「人間にはただ一度死ぬことが定まっている」(ヘブ9・27)のです。死後に「転生」はありません。
*教会は死の時を準備するよう私たちに勧めます。(昔の諸聖人の連願には、「主よ、突然の、不測の死から私たちを救ってください」という祈りがあります)。また「死を迎えるとき」私たちのために執り成してくださるようマリアに祈り、自分たちをよい臨終の擁護者である聖ヨセフに委ねるよう勧めます。

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