ベトナムで三年間生活しましたが、それと並行して、ベトナム語を勉強してみました。ベトナム語は声調、発音などが難しいので、習得するにはずいぶん時間がかかるなあと感じました。
初級からずっと初めていくと、いろいろな先生、生徒に出会っていきます。生徒は二十代、三十代の人が多く、私のような六十代の人は稀なです。その分、丁寧に対応してくれるのは有難いなあと感じました。二年くらい同じホーチミン市人文社会科学大学で勉強していると、何だか同じ仲間のような感じがしてなりませんでした。難しい語学に取り組んでいるということで、競争心よりもお互いに助け合う気持ちがつくづく感じられます。そんな時、お互いに「兄弟姉妹」のようだなあと思ったりしました。
今日もみことばで「神のみ旨を行うものは誰であれ、わたしの兄弟、わたしの姉妹、わたしの母である」とキリストは語ります。同じ洗礼を受け、同じ教えに生き、同じ使命の中で歩んでいく。そこに兄弟姉妹のような意識があるのでしょう。同様に、日本の教会の場合は、迫害の歴史を体験し、キリストの教えに従いながらお互いに助け、支え合うことを学んできましたし、生きてきました。事実、1614年に禁教令が発令され、1640年代には司祭がだれもいない時代が始まり、信徒発見までの間、信徒たちだけでキリスト教を生きる秘訣を体験しました。その意味でも、信仰を生きる「兄弟姉妹」は身近に感じられたのではないでしょうか。
私にとっての「兄弟姉妹」。歴史の中で、あるいは身近な生活の中でその感覚を味わっている感じがします。