旧約聖書での「いけにえ」の歴史を振り返ってみると、種々の形が登場します。まず創世記22章に出てくるイサクの奉献。アブラハムにしてみれば、高齢になってやっと授かったイサクを神様のためにいけにえとしてささげなさいと命じられます。信仰深いアブラハムは惜しみなくささげようとします。神様はアブラハムの素朴で素直な信仰を顧みて、イサクの代わりに木の茂みにいた一匹の雄羊をささげるように命じます。
また出エジプト記の12章では「主の過越」の場面が登場します。小羊の血を家の入口の二本の柱と鴨居に塗り、その夜、肉を火で焼いて食べる。動物の血によるいけにえです。
ところが新約時代に入り、イエスにいたっては御父から最愛の子として派遣されます。御父は最愛の子イエスを、十字架上でのいけにえとして惜しみなくささげます。旧約時代においては動物の血によるものでしたが、今度はキリスト自身の血に代わっていきます。
ミサの中心でもある聖変化。「取りなさい。これはわたしの体である」と。また杯を取り「これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」とイエスは語ります。イエス自身の体と血を、私たちへのいけにえとしてささげます。こうした出来事をミサの中で再現していきます。ミサをささげる時に思うのは、「これはわたしの体です」「これはわたしの血である」に込められたメッセージです。特に「わたし」という言葉には深い重みがあります。まさに司祭がキリストと同じ役割を果たしているのです。それを思うと、司祭としての責任、キリストの代理者としての使命を重く受け止めます。
いけにえの神秘を私たちに残してくださったイエス。そこにはイエスの限りない愛が示されています。聖体をかみ締めながら、イエスの愛を深く味わいたいものです。