私たちは、「真理」と言う言葉を耳にするとき、どのようなことを思いうかべるでしょうか。『新明解国語辞典』には、「①『正しい道理』、②「その物事に関して、例外なく当てはまり、それ以外には考えられないこと」とあります。多くの科学者や物理学者や哲学者などの「学者」は、この【真理】を探求するためにさまざまな方法を使って証明しようとしています。
イエス様は、ご自分のことを「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14・5)と言われました。私たちは、イエス様が言われた【真理】について証しをする使命をいただいています。そのためには、まず私たちが【真理】であるイエス様をもっと知り、深めていくことから始めなければならないのではないでしょうか。
きょうのみことばは、「最後の晩餐」の中でイエス様が「弁護者」である「聖霊」を私たちの所に遣わす、と言われる場面です。きょうのみことばは、「わたしの父のもとからあなた方に遣わす弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来られるとき、この方がわたしについて証しをしてくださる。」というイエス様の言葉で始まっています。イエス様は、これからご自分が十字架に架けられ亡くなって弟子たちの前からいなくなる前に、ご自分を証しする「弁護者」として【聖霊】をおん父の所から遣わされると約束されます。
【聖霊】は、三位一体の神のお一人です。【聖霊】は、ギリシャ語で「プネウマ」と言われ、「風」という意味です。風は、空気の流れによって起こります。私たちには、風も空気も見えませんが、木の枝が揺れているのを見て「あっ、風が吹いている」と感じることができます。同じように聖霊は、私たちの目には見えませんが、しかし、風や空気の流れを感じるように【聖霊】の働きに気づき、意識することで、私たちの周りに身近におられる【聖霊】を感じると同時に、いつも【聖霊】を感じるような心の敏感さが求められているのです。
イエス様は、ご自分を【証し】するために聖霊を遣わすことをお約束されると同時に、「あなた方もわたしを証しをするであろう。初めからわたしとともにいたのだから」と言われます。この言葉は弟子たちに対して言われていまですが、私たちに対しても言われているということも忘れていけません。私たちがイエス様を【証し】するためには、自分たちの力だけでは不可能ですが、【聖霊】と一緒なら可能になります。ですから、【聖霊】の働きに敏感になるような【耳】、【目】そして【心】を持ちたなければならないような気がいたします。【聴く】という言葉は、この3つの言葉を「十」(プラス)という字で繋がっています。私たちは、イエス様を【証し】するためには、まず、【聖霊】の声を【聴く】ことが大切なのです。
イエス様は、「まだたくさんあなた方に言いたいことがあるが、今、あなた方はそれに耐えることができない。しかし、真理の霊であるその方が来られると、あらゆる面であなた方を導いてくださる」と言われます。イエス様は、弟子たちがご自分を【証し】するためにご自分そのものを伝えたいと思われています。そのためにイエス様は、【聖霊】が、弟子たち(私たち)を導いてくださると言われているのです。
イエス様は「その方は自分勝手に語るのではなく、聞いたことを語り、起ころうとしていることを、あなた方に告げてくださるからである」と言われます。【聖霊】が【弁護者】と言われるのは、【自分勝手】なことではなく、常におん父の言葉を私たちに伝えてくださるからなのです。私たちは、イエス様のことを伝えるとき、「【私】が伝えている」のか「【聖霊】が伝えているのか」を振り返る必要があるのかもしれません。
パウロは「霊の導きに従って生活しなさい。……霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。……わたしたちは霊の導きに従って、生きているとするなら、また、霊の導きに従って前進しましょう。」(ガラテヤ5・16〜25)と言っています。私たちがイエス様を【証し】するとき、その【実】は、パウロが言う「愛、喜び……節制」でしょうか、いま一度ゆっくりと私の心を見つめてみるのもいいかもしれません。
イエス様は、「父が持っているものはすべて、わたしのものである。だから、その方がわたしのものを受け、あなた方に告げ知らせてくださると、わたしは言ったのである」と言われます。私たちは、【聖霊】の導きによって、イエス様を【証し】することで、おん父の所に向かいます。私たちの行いは、おん父の所に近づけば近づくほど、【聖霊】の実を結ぶことになります。私たちは、この【聖霊】の【実】を豊かに育てることでイエス様を【証し】することができるのではないでしょうか。私たちは、生活を通して【聖霊】を身近に感じることができたらいいですね。