主の昇天を前にして、イエスは「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16・15)と語ります。全世界への宣教です。
かつて中国で宣教していた人たちはたくさんいました。ところが、戦後、中国で文化大革命が起こり、必死の思いで日本にたどり着いた宣教師たちがたくさんいました。その中の一人に聖パウロ修道会の司祭でアルド・ヴァラルド神父がいます。彼はイタリアで叙階した後、しばらくして中国へ派遣されました。3、4年して文化大革命が起こり、死ぬか生きるかの思いで、日本にやってきました。日本語は六本木にあった日本学校に通いました。一年間、日本語を勉強しましたが、あまり上達しなかったようです。彼のメモに「日本語を話すのはほんのちょっと、読むのもほんのちょっと、書くことはできない」と書いてあります。謙虚な気持ちで書いたのでしょうが、自分自身でも語学能力の不足を感じていたのかもしれません。足りなさを感じると、だれでも謙虚になれるものだとヴァラルド神父さんを見ていて、感じました。
弟子たちはガリラヤの田舎から歩んできた人たちでした。学問的にも不十分なところはたくさんあったでしょう。ところが、「弟子たちは出かけて行って、至る所で宣教した」と書いてあります。たくさんの不安を抱えていても神様が守ってくださるという信念があれば、そのことは克服できるのかもしれません。自分の力ではない神様の力に信頼していく。
主の昇天は弟子たちが独り立ちしていく時です。いろんな不安を感じたことでしょう。イエスがこの地上からいなくなってほんとうに大丈夫だろうかなどと…。でも「主は彼らとともに働き」主が共にいてくださることが分かります。
私たちはうまくいっている時、主が共にいてくださることを感じるのはやさしいかもしれません。でも行き詰ってしまった時は難しいものです。何かしら自分から神様が離れ去ってしまったような思いに駆られるのではないでしょうか。難しい境遇に陥る時こそ、主が共にいてくださることを考えてみたいものです。