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これってどんな種?

留まるという種 復活節第5主日(ヨハネ15・1〜8)

 私たちの心が一番ゆったりする所はどのような場所なのでしょう。私たちの周りでは、体も心もリラックスできる場所を求めている方がいるのではないでしょうか。人によっては、山であったり、サウナであったり、魚釣りをする時間であったりとさまざまだと思います。いずれにしてもその人が安心して、【素】の自分でいられる場所が一番ゆったりできる所なのです。では、洗礼の恵みを頂いている私たちが一番ゆったりできる所はどこなのでしょうか。

 きょうのみことばは、イエス様が「わたしはまことのぶどうの木である」と言われる場面です。この言葉を聞いた弟子たちは、どのように思ったでしょうか。弟子たちにとって「ぶどうの木」は、身近なものでしたから、イエス様がご自分のことを「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は栽培者である」と言われた時に何となく想像できたことでしょう。

 イエス様は、「わたしにつながれていて、実を結ばない枝はすべて、父がこれを切り取られる」と言われます。前に住んでいた修道院に柿の木が植えられていて、毎年甘くて美味しい実をつけていました。ある時神父様が、「そろそろ枝を切らないといけないね。でもどの枝を切って、どの枝を残すかを間違えると実がならないから難しいんだよ」と言っていました。ですから弟子たちは、イエス様が「実を結ばない枝はすべて、父がこれを切り取られる」と言われた時に、実をつけるために枝を切ることが必要なことだと素直に受け入れたのです。

 きょうのみことばの中は、【留まる】という言葉をイエス様が何度も言われています。そしてイエス様がこの言葉を使われる時には、必ず「わたしの【うちに】留まる」とか「あなた方の【うちに】留まる」というように【うちに】という言葉を使われています。ということは、ただ単に【留まる】だけではなさそうなのです。ちなみに『新明解国語辞典』で「留まる」と調べると最初に出てくる意味として「その場所や組織に居続ける」とあります。みことばは私たちが、【ぶどうの木】であるイエス様の所にただ「居続ける」だけではなく、もっと深いところで【留まって】いなければならないことを示しているようです。

 最近「推し活」という言葉を耳にしますが、そのようにある人、あるキャラクターに感化されている人に対して、私たちはよく「あの人は○○色に染まっている」とか「どっぷり浸かっているよね」と言うことがあります。イエス様が言われる「わたしの【うちに】留まる」と言われるのは、私たちが「イエス様の色に染まるほど」【どっぷり】と浸かっていなければならないのではないでしょうか。

 イエス様は、「わたしもあなた方のうちに留まる」と言われます。イエス様と私たちの関係は、お互いが混じり合っていると言えるのです。この言葉は、私たちに勇気と希望を与えてくださるのではないでしょうか。私たちは、聖体やみことばを通してイエス様と交わっています。このみことばは、今、この時においても行われているのです。

 イエス様は、「……あなた方もわたしのうちに留まっていなければ、実を結ぶことができない。……わたしを離れては、あなた方は何もすることができないからである」と言われます。実際「弟子たちの多くはイエスに背を向けて去り、もはや行動をともにしなくなった」(ヨハネ6・66)とありますように、イエス様の弟子たちであった人たちがイエス様の教えについていけなくて去っていった箇所があります。彼らは、最初はイエス様の教えに感化されて弟子になったのですが、イエス様という【ぶどうの木】から実をつけずに切り取られた枝ということになるのです。

 イエス様は、「わたしはぶどうの木であり、あなた方は枝である。人がわたしのうちに留まっているなら、その人は多くの実を結ぶ。」と言われ、繰り返し私たちがご自分に【留まる】ようにと言われます。それは、まさにイエス様が私たちを【アガペの愛】で包んでくださることを望まれているからなのです。

 さらに、イエス様は「……わたしの言葉が、あなた方のうちに留まっているなら、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」と言われます。私たちは、日常の生活の中でさまざまな【壁】にぶつかり、前に進むことができないことがあるのではないでしょうか。そのような時は、往々にして「私は前に進みたいのに、この道でいいのか、別の道があるのではないか」と不安に駆られることがあります。イエス様は、そのような私たちに「望むものは何でも願いなさい」と言われます。イエス様は、私たちが「行こう」とする一歩望んでおられ、一緒に願いをかなえてくくださるお方なのです。

 最後にイエス様は、「わたしの弟子になるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」と言われます。私たちは、イエス様という【ぶどうの木】に留まり心も体もそして何よりも【霊的】豊かになり、おん父が栄光を受けるようになればいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

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