毎年いろいろなメディアで、「理想の上司ランキング」というのが出ています。彼らは、その年を反映したような方、いろいろな分野で活躍された方が選ばれています。では、洗礼の恵みを頂いている私たちにとっては、おん父であったり、イエス様であったり、聖霊やマリア様であったりするかもしれませんね。他に、いろいろな聖人が入ってくるかもしれません。私にとっての「理想の上司」を思い浮かべてみるのもいいかもしれませんね。
きょうのみことばは、イエス様が「わたしは善い羊飼いである」と言われる場面です。ヨハネ福音書の10章は、イエス様を「羊飼い」や「羊を囲っている門」というように喩えられ、イエス様とおん父、そして私たちとの関係が描かれています。きょうのみことばはイエス様が「わたしは善い羊飼いである」と言われるところから始まっています。普通私たちは、「私は善い○○である」と言うことは滅多にありません。冒頭のようにあったような「私は善い上司である」などと口にすると、たちまちランキングから外されることでしょう。
しかし、イエス様ははっきりと「わたしは善い羊飼いである」と言われます。私たちにとって「羊飼い」や「羊」というのは、あまり馴染みがありません。以前、羊をメインにしたテーマパークに行ったことがあります。その中のアトラクションの一つで羊たちとトレーナーがいろいろなパフォーマンスをするところがありました。ショーですから、面白く観客を笑わかしたり、驚かしたりしたりしていましたが、本当にトレーナーと羊たちとのコミュニケーションがよくできていたと感じました。
このテーマパークのトレーナーと【善い羊飼い】と比べるというのは、ちょっと意味合いが違いますが、羊たちを導くという点では、共通するかもしれません。パレスチナ地方では、「羊飼い」と「羊」との関係を身近なものとして一般に知られていましたし、生活の中に当たり前のように入っていました。ですから、イエス様が「わたしは善い羊飼いである」と言われた時には、人々はすぐに理解したことでしょう。羊は、羊飼いの導きによって牧草地に導かれますし、野犬や狼などの外敵から自分達の身を守られるのです。ですから、羊にとって羊飼いがいないと死活問題になるのです。
イエス様は、「善い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いではなく、羊が自分のものではない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。……羊のことを心にかけていないからである」と言われます。イエス様は、【善い羊飼い】と【雇い人の羊飼い】とを比べられています。この【雇い人の羊飼い】というのは、当時の律法学者やファリサイ派といった指導者のことを言われていたではないでしょうか。彼らは、喩えの中の【羊】である民衆を導く立場にありますが、【狼】と喩えられている「障害」や「不都合」な問題にぶつかると、民衆を放って自分たちの責任を放棄していたのかもしれません。
しかし、イエス様は彼らと違って「わたしは善い羊飼いである。善い羊飼いは【羊のために命を捨てる】」と言われます。イエス様が言われる【命を捨てる】というのは、ご自分の所に来たユダヤ人たちを「命をかけて守る」という意味もありますし、何よりもおん父のみ旨である「死と復活」を通して私たちの罪を贖うという意味もあるのです。私たちは、ご自分の命を捨てられ復活されたイエス様を信じ、洗礼の恵みを頂いたのです。
イエス様は、「わたしは善い羊飼いであり、自分の羊を知っており、わたしの羊もまたわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしも父を知っているのと同じである。」と言われます。イエス様が言われる「知る」というのは、頭の中で「知っている」という意味ではなく、もっと深い関係という意味として使われていますし、【愛】に置き換えた方がより身近なものとなると思います。ですから、イエス様が羊である私たちのために十字架上での【死】と【復活】は、私たちへの【アガペの愛】ということになるのです。
イエス様は、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もある。わたしは、その羊たちを導かなければならない。彼らもわたしの声を聞き分ける。」と言われます。私たちは、イエス様が復活されたことを知った使徒たちの働きで、洗礼の恵みを頂きました。イエス様は、当時のユダヤ人社会の人たちに以外の人たちに対しても心にかけられ、導かれるのでした。イエス様は、「彼らもわたしの声を聞き分ける」と言われます。今、私たちの周りには、いろいろな情報で溢れています。その中で何が真実なのか、どれがイエス様の声なのかを聞き分けなければならないのです。
私たちは、ご自分の命を捨てて私たちを愛してくださった【善い羊飼い】であるイエス様の【声】を聞き分けながら日々の生活を歩んでゆくことができたらいいですね。