アルバ市の東南、およそ13キロメートル離れたランゲ丘陵地帯の頂上に、ベネヴェロ(Benvello)教会があった。ジャッカルド神父は、毎土曜日の午後になると、「代用の足」と自称した杖を頼りにベネヴェロまで歩き、出会う人ごとに挨拶したり、ベネヴェロの農民たちと気軽に冗談を交わしたりするのであった。しかし、天気の悪い時、特に大雪の降る時は定期バスに乗った。それでも、バス停からベネヴェロ教会までは一キロの坂道を上らなければならない。靴は泥まみれ、スータンはびしょ濡れになってようやく教会にたどりついても、火の気さえない。ブルブル震えながら、とにかく、そこにある古着を着込んで体温で温まるほかはなかった。5分か10後には、村人たちが「ゆるしの秘跡」を受けにやって来る。ジャッカルド神父は、それに応じて告白室に入り、長時間信者の告白を聴き、罪のゆるしを与えるのである。そして時には、夕食もそこそこに夜中まで「ゆるしの秘跡」を授けることもあった。
翌日曜日の朝、4時半には、ジャッカルド神父は聖堂内の聖櫃の前で祈り、手にはロザリオを持ち、両手で頭を抱えて「ゆるしの秘跡」を受けに人が来れば、すぐにでもそれに応じる態勢を取っていた。すべての人のためにすべてとなる奉仕者の姿が、そこにあった。昼食が終わると、また聖堂に入って「ゆるしの秘跡」を授けていた。その日は、文字どおり「猛烈神父」として、聖堂内の聖務に明け暮れていたのである。
ベネヴェロの人たちは、ジャッカルド神父のことを親しみと尊敬を込めて「テオロギン(神学の若師匠さん)」と呼び、気軽に近づき、胸襟を開いて、よもやま話をするのであった。ジャッカルド神父は、自分に対してはたいへん厳格であっても、人に対してはきわめて寛容であり、理解と同情を示し、さらに適切なアドバイスで勇気づけたり、励ましたりしていたからである。ここの主任司祭も、ジャッカルド神父を高く評価して、「テオロギンのような人はまたとない」と言っていた。
土曜日の夕方、ジャッカルド神父の姿が遠くに見えると、たちまち「『テオロギン』が着いたよ! ゆるしの秘跡を受けに行こう」というニュースが村中に広がるのであった。教会の近くに「トリノ・スフラジオ(Siffragio=死者の贖罪と冥福を祈る)修道女会」があったが、ジャッカルド神父は、まず、ここのシスターに週刊新聞『ガゼッタ・ダバル』一部を配り、残りを信者のために携えて聖堂に入るのだった。そして月曜の早朝には、再び徒歩でアルバに帰っていった。これが一年以上続いたが一九二一年、ジャッカルド神父は新しい任務についたため、ベネヴェロの信者たちに惜しまれながらも、この「散歩」をやめざるを得なかった。
草創期のパウロ家は、ベネヴェロの信者たちから志願者や財政的援助を多大に受けたが、これは、アルベリオーネ神父やジャッカルド神父の蒔いたカラシ種が大きく実ったものとも言えよう。
・『マスコミの使徒 福者ジャッカルド神父』(池田敏雄著)1993年
※現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し掲載しております。