1945年8月6日、広島で数多くの方々が被爆しましたが、その中にイエズス会の3人の宣教師たちが含まれています。ペトロ・アルペ神父(のちにイエズス会の総長となった神父)、フーゴー・ラサール神父(日本に帰化し、愛宮真備<エノミヤマキビ>神父と改名)、チースリク神父(キリシタン研究家)。
一つのエピソードですが、アルペ神父さんが広島でキリスト教講座を開いていました。一年がすぎ、いよいよ復活祭が近づいてきました。アルペ神父さんは一人ひとりに「あなたは洗礼を受けますか?」と尋ねました。みんなそれぞれに「はい」「はい」…と。その中に、毎回、欠かさず出席して、しかも一番前の席に座っている方に同様に尋ねました。「あなたは洗礼を受けますか?」と。彼は「はあー?」。二回目も同様に尋ねると答えは「はあー?」三回目も同様でした。するとその方が次のように答えました。「神父様、私は耳が遠いんです。一年間出席しましたが、神父様の講座は聞こえなかったので何も分かりませんでした。でも神父様の教えている姿を見て、これは本物だなあ思ったので私は洗礼を受けます」。信仰への道はいろいろあります。
さて今日のみことばはトマスの信仰告白が登場します。「わたしの主、わたしの神よ」と答えていきます。それまで信じることのできなかったトマスがはっきりと信仰を告白します。トマスの疑いは私たちの疑いでもあり、キリストの復活が私たちの常識をはるかに超えるものであることを示すのではないでしょうか。
キリストの立場からすると、トマスをも一人の人間として温かい目で見つめ、受け入れていきます。まさにキリストの慈しみと憐れみが示される時ではないでしょうか。理解することが難しく、すんなりと受け入れることが難しくても、人を見捨てることのないキリストの慈しみは、全ての人々を信仰へと導いていきます。