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みことばの響き

見捨てられる 受難の主日(マルコ15・1~39)

 毎年、受難の主日になると受難の朗読が行われます。今年はB年なので、「マルコによる福音書」が朗読されますが、いつもよりもちょっと短めに感じるのではないでしょうか。イエスの受難が簡潔に描かれていますが、その中でもイエスが十字架上で語る「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」ということばは印象的です。

 「見捨てる」とは、ギリシア語でエンカタレイポーが使われていますが、これは「見殺しにする」「砂漠の中におく」と言った意味が込められています。もともと旧約聖書の「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」(詩編22・1)から取られていますが、イエスが見殺しにされ、孤独に追い込まれた状況が想像できるのではないでしょうか。

 十字架につけられたイエスの側から考えていくと、ヨハネを除いて愛する弟子たちは恐怖のあまり、ゴルゴタの丘から逃げ去っていました。イエスにとって、長年いっしょに宣教活動をしてきた仲間たちから見捨てられたように感じたことでしょう。心身共に痛み苦しむイエスは、父である神からも見捨てられたような気持ちで「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」のことばを発していきます。孤独と苦悩の狭間に立つイエス。そんな絶望の淵にある中で、百人隊長の「本当に、この人は神の子だった」というメッセージは、それまでの孤独や苦悩を払拭していくことばです。百人隊長もまた、傷ついたイエスの姿に本物のメシアを見たのでしょう。

 私たちも人生の中で、見捨てられ、裏切られることもしばしばあるでしょう。そんな時、孤独と不安に精一杯耐えていったイエスの姿は、私たちに力と勇気を与えてくれます。

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