序)「使徒信条」の中で「教会は一、聖、公(普遍)、使徒継承」と宣言いたします。四つの中でも、今日は「公(普遍)」について考えてみたいと思います。
1 教会は公(普遍)である
教会が公(普遍)という時、「カトリック」という言葉が使われます。もともとの意味は、「すべてに及ぶ」「すべてを含む」です。
このことを象徴するかのように、以前、ミサがラテン語で行われていました。司祭がどこに行っても、同じ言語でミサをささげることができるという考え方でした。「普遍的」にという一つの解釈によるものです。しかし、第二バチカン公会議によって、言葉は違っていてもミサの内容が同じという意味で、「普遍的」というように考えられるようになりました。それによって、現在では日本では日本語でささげることができるようになりました。
私ごとになりますが、小学生の頃、ミサがラテン語で、侍者として答える個所があり、たいへんだったなあという思い出があります。
2 公(普遍)の意味
➀まず、教会のうちにキリストが現存されるので普遍です。「キリスト・イエスのおられるところ、そこに普遍教会があります」。教会はキリストのからだとして、その頭に結ばれて、すべてにおいてすべてを満たしているかたの満ちておられる場です。(エフェ1・22~23)
基本的な意味として、教会は聖霊降臨の日から普遍です。またキリストの再臨の日まで、つねにそうであり続けます。
②教会が普遍であるのは、キリストによって全人類に派遣されているからである。
「教会憲章」の中で次のように記されています。「人は皆神の新しい民に加わるように招かれています。そのためにこの民は、単一、唯一のものとして存続しながら、全世界に向かって、またあらゆる時代を通して広がるべきものです。それは、初めに人間性を一つのものとして造り、分散してしまったご自分の子らを、ついに一つに集めることを決定された神のご意向が成就されるためです。…神の民を飾るこの普遍性は、主ご自身からの賜物であって、カトリック教会はこの賜物によって、全人類をそのすべての富とともに、頭であるキリストのもとに、キリストの霊による一致において集中するよう、効果的に、たえず努力している」(13番)
3 開かれた教会
以前、教会に入ること、あるいは教会の中に終わりまで留まることを拒否するとなれば、このような人たちには救いはない、教会にだけ救いがあると考える人たちもいました。
でも、時代とともに、「本人の側に落ち度がないままに、キリストの福音ならびにその教会を知らずにいて、なおかつ誠実な心をもって神を捜し求め、また良心の命令を通して認められる神の意志を、恩恵の働きのもとに、行動をもって実践しようと努めている人々は、永遠の救いに達することができる」と言われています。
まさに救いがすべての人に開かれていることを考えることができるものです。救いの普遍性と言ってもよいでしょう。
「聖霊は、教会のあらゆる使命の主要な働き手です」。宣教するようにと教会を導かれるのは聖霊です。