私は、以前農家でさつま芋のつる返しの手伝いをしたことがあります。さつま芋は、種芋を植えると成長する中で長いつるが出てきます。そのつるを放っておくと、そこから根が生えもと元の芋が成長しないのです。そのため、つる返をして元の芋に養分がいくようにするのです。収穫の時、一つの種芋からたくさんのさつま芋をいただくことができるのです。
農家の人のそのような一つひとつの労力、愛情があって美味しいさつま芋ができるのですが、それと同じように、私たちが人のために何かをするという行為もたくさんの実りを得ることができるのではないでしょうか。
きょうのみことばは、ヨハネ福音書の中で描かれる【ゲッセマネでの祈り】と言われる場面です。みことばはイエス様の所にギリシア人が訪ねてくるところから始まります。彼らは、まずフィリポの所に来てイエス様に会いたいと伝えます。フィリポはアンデレの所に行ってそのことを伝え、今度は、フィリポとアンデレがイエス様の所に行って、ギリシア人が来たことを伝えます。この弟子たちの取次によってギリシア人は、イエス様に会うことができたのです。
このことは、私たちにも当てはまることではないでしょうか。私たちがイエス様と出会う時、いろいろな人の影響や助けを受けていますし、幼児洗礼の場合は両親や親戚の信仰があって洗礼の恵みを頂きます。そして、今度は洗礼の恵みを頂いた私たちが、周りの人との関わりを通して洗礼の恵みへと導く助けをするのです。
イエス様は、ギリシア人が訪ねて来た時に、「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われます。このことは、イエス様が善い羊飼いの教えの場面で「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もある。わたしは、その羊たちをも導かなければならない。彼らもわたしの声を聞き分ける。こうして、一つの群れ、1人の羊飼いとなる。再びそれを得るために、わたしは自分の命を捨てる。」(ヨハネ10・16〜17)と言われています。ギリシア人は、まさに、この【囲いの外の羊】なのです。このみことばのように、ギリシア人は、イエス様との出会いによって群れである【教会】を作り、羊飼いとして宣教に出かけて行くようになるのです。それは、私たち一人ひとりにも与えられた使命と言ってもいいでしょう。
イエス様は、「もし一粒の麦が地に落ちて死ななければ、……自分の命を愛するものはそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る」と言われます。イエス様は、【一粒の麦】をご自分とあわせて、これから向かおうとする受難と復活について語られます。さらに、ご自分のことだけではなく、ご自分についてくる人に対しても語られ、自分の命(エゴ)に執着する人は、自分を失い永遠の命に入ることができないことを言われます。逆に、自分の命を憎む者というのは、自分の時間、労力を惜しまず周りの人のために自分自身を捧げる人のことを言われ、その愛の業によって永遠の命に入ることができるのです。
イエス様は「わたしに仕えようとする者はわたしに従いなさい。……父は、その人を大切にしてくださる」と言われます。私たちは、洗礼の恵みを頂き、イエス様に仕える者となりました。イエス様は、ご自分が【一粒の麦】としてご受難と復活を受けられたように、私たちもイエス様と共にこの恵みを頂くことをお約束されます。イエス様は、このみことばの中で【仕える者】という言葉を何度も繰り返されます。この【仕える者】というのは、洗礼の恵みを頂いてイエス様を中心にして集まった共同体であり【教会】と言えるのではないでしょうか。イエス様は、私たちが【教会】を通して行う【愛の業】をおん父が祝福してくださると言われているようです。
イエス様は、「今、わたしの心はかき乱されている。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。いや、このために、この時のためにこそ、わたしは来たのである。」と言われます。このみことばの中には、イエス様のおん苦しみと、おん父への従順、そして、私たちへの【愛】が表れているのではないでしょうか。そして、この「いや、このため、この時のためにこそ、わたしは来たのである」というみ言葉は、イエス様とおん父との識別の【時】から出されたものと言ってもいいのかもしれません。
みことばは、「わたしはすでに栄光を現したが再び栄光を現そう」というおん父の言葉を示されます。このことは、イエス様の受肉と受難を意味しているようです。イエス様はニコデモに「実に、神は独り子をお与えになるほど、この世を愛された」(ヨハネ3・16)と話されましたが、このみ言葉がおん父の言葉を通して私たちに示されたのです。
私たちは、【一粒の麦】となられたイエス様によって【永遠の命】という恵みを頂くことができました。私たちは、イエス様に【仕える者】として私たちも【一粒の麦】となることができたらいいですね。