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これってどんな種?

光に集うという種 四旬節第4主日(ヨハネ3・14〜21)

 「気が合った人たちや、似通った人たちは自然と集まってくる」という意味で「類は友を呼ぶ」ということわざがあります。私たちは、いろいろな趣味、考え方、目的などが同じ人同士集まりますし、その中でより良い方向へ行こうとしています。では、洗礼の恵みをいただいている私たちは、どこに集っていっているのでしょうか。

 きょうのみことばは、ファリサイ派でユダヤ人の議員であるニコデモがある夜イエス様の所に訪ねてきた時の話の場面です。ニコデモは、ファリサイ派なのですが、他のファリサイ派とは少し違っていて、イエス様のことを擁護したり(ヨハネ7・51参照)、イエス様が十字架上で亡くなられた時にも、没薬と沈香を混ぜ合わせた香油を携えて埋葬の手伝いをしたりしています(ヨハネ19・39)。きっと、イエス様に惹かれる何かが彼の中にあったのではないでしょうか。

 ニコデモはイエス様の所に訪ねてきた時に「あなたが行っておられるあのような徴は、神がともにおられるのでなければ、誰にもできないからです」(ヨハネ3・2)と言います。イエス様は、彼に応えて話を始められます。きょうのみことばは、イエス様とニコデモとの会話の後半部分です。

 イエス様は、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない」と言われます。このことは、おん父がイスラエルの民をエジプトから約束の地に行く途中の荒れ野での旅があまりにも辛く、イスラエルの民がおん父に対して不平を漏らします。おん父は、彼らに火の蛇を送り、民が蛇に咬まれて多くの人が死にます。人々は、自分たちがおん父に対して罪を犯したことを悔やみ、モーセの所に来て「わたしたちは主とあなたを非難し、罪を犯しました」と言って罪の赦しを願います。その時に、おん父がモーセに「火の蛇を造り、それを旗竿の上に掛けよ。咬まれた者はみな、それを仰ぎ見れば、生きる」(民数記21・4〜9参照)と言われたことをイエス様は、言われたのです。

 イエス様は、罪を犯しおん父の国の宴に入ることができない人々を救うために、モーセが荒れ野での蛇を上げて、人々が救われたように、ご自分の方を見る(信じる)者を癒される、ということを言われます。実際私たちは、教会に掲げられている十字架を見て何度も癒されていますし、いろいろな導きもいただいています。このように考えますと、イエス様のこの言葉は、今の私たちに向けた【福音】と言っても良いのです。

 イエス様は、「それは、信じる者がみな、人の子によって永遠の命を得るためである」と言われます。イエス様は、私たちが弱くて貧しい罪人であること、私たちが悔い改めてもまた罪を犯してしまうこともご存知なのです。それでも、イエス様は、おん父がこのように弱い私たちでも、ご自分を信じ、おん父の方へ向きを変える人に【永遠の命】をくださることをお約束されたのです。

 イエス様は「実に、神は独り子を与えになるほど、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである」と言われます。ヨハネ福音書の1章に「この世はみ言葉によってできたが、この世はみ言葉を認めなかった。み言葉は自分の民の所に来たが、民は受け入れなかった。しかし、み言葉を受け入れた者、その名を信じる者には、神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1・10〜12)とあります。私たちは、おん父によって造られましたが、自分の弱さ、貧しさによって罪を犯してしまいます。それでも、おん父は私たちを愛しておられ、【永遠の命】をくださるのです。

 しかし、残念なことに【永遠の命】よりも【永遠の死】を選んだ人もいるのです。それはイエス様が言われる「信じない者はすでに裁かれている。……その裁きというのは、光がこの世に来たのに、人々が、光よりも闇の方を愛したことである。」と言われる人のことなのです。ここでイエス様が言われる【信じない者】というのは、罪人という意味ではなく、「イエス様を必要としない人、『自分の力で何でもできると』と思っている人」のことを指しているようです。彼らは、イエス様が言われているように「すでに裁かれている」のです。

 私たちは、「どこに立っているのでしょうか」、イエス様を信じていると言ってもどこか「自分の力でできる」と思っていないでしょうか。私たちは、このことをしっかり見つめ直さなければいけないのかもしれません。

 イエス様は、「真理を行う者は光の方に来る。その行いが神のうちにあってなされたことが、明らかにされるためである」と言われます。真理を行う者とは、イエス様を信じてついて行こうという人たちです。私たちは、イエス様を信じて光の方に集って来ました。私たちは、たとえ罪を犯しても、もう一度おん父の方に向きを変える機会をいただいています。おん父は、私たちが犯した罪を悔やみ十字架上の独り子を見つめ直す時、私たちに【永遠の命】を喜んで与えてくださいます。私たちは、このことに希望と信頼を持って歩んでいけたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 今を生きるという種 年間第33主日(マルコ13・24〜32)

  2. 僅かな献金という種 年間第32主日(マルコ12・38〜44)

  3. 愛なしにはという種 年間第31主日(マルコ12・28b〜34)

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