聖ペトロと聖パウロは、初代教会における二本柱です。年齢も近かったと思われますが、育った環境も、受けた教育も、性格も大いに異なっていました。ただ、二人とも主から委ねられた福音宣教の使命をよく理解し、互いに尊重し合っていました。つまり聖ペトロはユダ人に対する福音宣教を、聖パウロは異邦人に対する福音宣教を、主から委ねられた使命だと理解し、お互いに了解していました。「けんかによって発展した」というのは、お互いが励まし合い、切磋琢磨し合うことによってそれぞれの力がより引き出され、教会の発展を促したという意味ではないでしょうか。
ペトロとパウロが最初に出会ったのは、パウロの回心から三年後の西暦三四年ころで、エルサレムにおいてでした。二人ともユダヤ人です。当時のキリスト教徒はその大半がユダヤ人でしたが、パウロはユダヤ人でない人々、つまり異邦人にも積極的に福音を告げることが自分に委ねられた使命だと確信していました。そこでパウロはわざわざエルサレムに出向いて、ペトロに面会を求めました。そこまでするパウロを、ペトロが心に懸けないはずがありません。このときから、パウロはペトロを「ケファ」と呼びました。パウロはその手紙の中で八回「ケファ」と書いています。二人がどれほどの仲であったかは不明ですが、主から委ねられた使命を、お互いに認め合っていたのは確かです。だからこそ、ペトロが間違っていると気づいた時、パウロは人々の前でペトロに忠告したのでしょう(ガラ2章)。このときペトロは辛い思いをしたでしょうが、二人の信頼関係が崩れることはなかったようです。
パウロは折りにふれてエルサレムを訪問しましたが、それはペトロとの絆を強めるのに役立ったと思われます。パウロが推進していた、エルサレムの信徒たちのための献金活動も、パウロとペトロの絆を強める役割を果たしたでしょう。ペトロとパウロは日常における友ではなく、世界規模で広まりつつある福音の「宣教仲間」でした。
パウロは地中海一帯を巡回して宣教活動を展開しましたが、ペトロもアンティオキアやコリントの教会などを訪問して、信徒たちを励ましていたようです。二人とも宣教仲間に恵まれ、いわゆる「パウログループ」や「ペトログループ」のようなものもできていたようですから、グループ間でライバル意識を持つこともあったようですが(一コリ1章)、二人の聖人がけんかをしたわけではありません。両聖人は共にその生涯の最後をローマで迎えました。ペトロはバチカンの聖ペトロ大聖堂の地下に、パウロは少し離れた聖パウロ大聖堂の地下に葬られています。二人は主において結ばれた「宣教仲間」でした。