旧約世界の中で、病気は罪の結果とされていました。その当時、その中でも重い皮膚病だと診断された方は、ある意味で死を宣告されたようなものでした。その時代の状況から、ハンセン病なども重い皮膚病と考えることができるでしょうか。
かれこれ40年前のことですが、熊本にある待労院を訪れたことがあります。司祭になって1か月か2か月後のことでした。私にとっては、この施設で働くシスター方への感謝も込めての初ミサでした。神学生時代にお世話になったシスター、同じ郷里のシスターがいることもあって…。そこにはハンセン病のために約50名の方が入所していました。手が曲がっていたり、足が悪かったり、目が不自由な方などもいましたが、とても明るい方々が多く、優しく迎え入れてくれました。
聖堂では一所懸命に祈っている姿、手を合わせている姿には心を打たれるものがありました。別れ際に一人ひとりに握手をしましたが、指が全くない人もいました。不自由な生活を強いられていると思いますが、希望を感じさせるとても豊かな心の持ち主でした。
今日の福音の中に登場する人は重い皮膚病を患っている人です。イエスはその人に対して「深く憐れむ」心を示されます。「憐れむ」はギリシア語でスプランクニゾマイが使われ、もともとは「はらわた」「内臓」を意味します。人間の中で一番弱い部分で、その思いやりから「憐れみ」の言葉が生まれたのでしょう。イエスは手を差し伸べて重い皮膚病の方を癒されます。「よろしい。清くなれ」と語ります。「清くなる」という時、癒される意味を持つ「テラペオー」が使われやすいのですが、ここでは「カタリゾー」(清める、聖なるものにする)が使われています。単に病気を治すだけではなく、清い者、聖なる者にしていくところに、イエスの深い愛が感じられます。
聖なる者にされ、気持ちも晴れ晴れとしたものになる清めのメッセージを、感じ取りたいものです。