私たちは、テレビやラジオを始め、最近ではSNSなどあらゆるメディアを通していろいろな情報を得ることができます。その中には宣伝が入っていて、私たちが日常生活に必要なものであったり、コンサートなどのイベントであったり、すぐに必要ではないけれど、見ていると欲しくなってしまうようなものなど、私たちの興味をそそるように流れて来ます。では、洗礼の恵みを頂いている、私たちは、何を宣伝すればいいのでしょうか。この【宣伝】という言葉は、私たちが福音書の中で時々目にする「宣べ伝える」から、「べ」と「える」という送り仮名をとったものです。このように、考えますと私たちが何を【宣伝】すればいいのか自ずと見えてくるのではないでしょうか。
きょうのみことばは、イエス様が宣教するに先立ち弟子たちを召し出す場面です。みことばは「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリレヤに行き、神の福音を宣べ伝えて仰せになった、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』」という言葉で始まっています。イエス様は、荒れ野で40日の間留まられ、サタンに試みられます。イエス様は、おん父の子ですから試みに会う必要はないのですが、人として私たち人類の弱さを体験されたのでしょう。その後、イエス様は、ガリラヤに行かれたのです。
イエス様は、ガリラヤへの道の中で何をお考えになられたのでしょうか。40日間の荒れ野での試み、その間におん父との会話をなさったことでしょうし、どのようにして、人々に福音を伝えたらいいのかと考えたことでしょう。そして、荒れ野を離れガリラヤに向かう中で、心を踊らせて、まず、ご自分と一緒に働く人のことを思い巡らせていたのかもしれません。
イエス様は、ご自分について【証し】された洗礼者ヨハネがヘロデによって捕らえられた後に、神の国の福音を【宣べ伝えられ】ます。イエス様は、ヨハネからバトンをお受けになられたのです。イエス様は「時は満ち」と言われ、ようやくイスラエルの民が待ち望んでいた【神の国】が近づいている「準備が整った」と言われます。イエス様が言われる【神の国】と言うのは、ご自分が王として君臨する新しい【国】であり、おん父と共にいる【国】という意味です。
イエス様は、「悔い改めて福音を信じなさい」と言われます。まず、私たちが【悔い改める】ことが大切になってきます。そのためには、「私は、今どこに立っているのか」と自分の【立ち位置】をしっかり見つめ直す必要があります。【福音】は、私たちがおん父の方に「向き直る」ことで私たちの中に入ってくるのです。私たちの中に、おん父以外のものでいっぱいだったら、せっかくの【福音】が入る所がないのです。
私たちは、悔い改めて頂いた【福音】の喜びを人々に「宣べ伝える」という使命があります。パウロは、「わたしが福音を宣べ伝えても、誇りにはなりません。そうしないではいられないからです。もし、福音を宣べ伝えないなら、わたしにとって災いです。」(1コリント9・16)と伝えています。私たちは、このパウロのように強く、激しく【福音】を宣べ伝えることは難しいかもしれませんが、「パウロのようになってみたい」という気持ちで【福音】を宣べ伝えることができるのではないでしょうか。
イエス様は、ガリラヤ湖のほとりを通られたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になられます。そして、「わたしについて来なさい。人を漁る漁師にしよう」と声をかけられます。私たちは就職するとき、自分たちが志望する会社に行き、面接を受けます。しかし、今の私たちの社会では考えらませんが、イエス様の場合はご自分から声をかけられていますので、社長自ら社員を探しに出向くようなことなのです。
また、イエス様が彼らに声をかけられる前にみことばは「彼らは漁師であった」とありますし、イエス様の声かけの中にも、「人を漁る漁師にしよう」という言葉があります。イエス様は、彼らの中に自然に入って行く【言葉】を使われてご自分の弟子にされたのです。例えば、私たちが教師や医者、料理人、または、家庭の主婦だったとしても、「人を漁る○○にしよう」と言われることでしょう。イエス様からの【召命】は、司祭や修道者だけではなく、私たち一人ひとりの特徴、その場を生かして召されるのです。
彼らは、ただちに網を捨てて従います。イエス様は、さらに少し歩まれて、ヤコブとヨハネに対しても声をかけられます。彼らも父親と舟を残してイエス様の後についていきます。イエス様に【声を】かけられられた人は、自分の生活を捨てても良いと思うほど変えられるのです。
私たちは、洗礼の恵みを頂いてイエス様の弟子となり、福音を【宣べ伝える】使命を頂きました。私たちは、この使命を根気強く、謙遜な気持ちでイエス様と共に一生をかけて歩むことができたらいいですね。