ピノトゥがマスコミに関心を寄せ、アルベリオーネ神父作の祈りを毎日唱えていたことは前に述べたが、一九一六年の終わりごろ、それに応えるように神の恵みが神学二年生のピノトゥに与えられた。そのころ、アルバ神学校でパシ(Pasi)司教の講演を聴いて大いに感動し、手帳の中に次のような感想を述べている。
司教様の講演に、私はたいへん心を打たれました。司教様の声高に警告を発したのです。その言葉の響きは、弁護士の語るようなものではありません。「あなた方は行って、すべての民に教えなさい」という神の命令を、司教様自身が言っておられるように聞こえたのです。
これは、神が自分を新しい使命へと招いておられる「しるし」だ、とピノトゥは感じ取り、その召命を確かめるため、人事を尽くした上に、祈り、秘跡を受けた。そして、こころの底を単純・明確に指導司祭に打ち明けて、助言を求めたのである。四年の1917年2月11日、「ルルドの聖母」の記念日に、彼はこう記している。
すべてを熟考した結果、私は養成期間中の身であることに気づきました。すなわち、この期間中に、創立者ならびに神の宣教者たちの養成者であり頭であるイエス・キリストが、生涯私の精神を、私のすべてを指導してくださることに気づきました。つまり、キリストは私の活動の分野を決め、教会の中での私の使命を明らかにしてくださり、この使命に向けて私を養成してくださっています。
1917年3月4日に、ピノトゥは再び自分の召命について指導司祭に相談し、その指導を仰いだ。その日の日記に、こう書いてある。
私は新しい修道会に向いていると思いますが、その反面、普通の司祭職への興味もあります。それで、もし出版使徒職の修道者になるために司祭職を断念しなければならないとしたら、修道会をあきらめて普通の司祭職を選びます。その他のことはすべて断念する覚悟です。
3月7日、アルベリオーネ神父はピノトゥを呼んで、“大事なのは、司祭になれるかどうかよりも、完全に自己放棄することによって神のみ旨を生活の中に生かし、これをすべて果たすことである。また、お恵みの時を逃さないように、ぐずくずしないで早く決めなさい。そうでないと、次から次へと問題が出て、あれが神のみ旨だったのに、と後で悔やむことになるから“と諭し、さらに、“謙虚に祈り、罪を深く悔やみなさい“と諭した。この言葉によりピノトゥの思いは大きく前進した。それは、彼が次のように書いていることからも推測できる。「私の思いは具体化しています。カトリック出版物への思いで頭も意志も心もいっぱいの状態で生活しています」と。
アルベリオーネ神父は、ピノトゥと最初に出会った時から、この子なら「事業」をやっていける、とずっと考えていたし、そうなるように祈り続け、お恵みの時をピノトゥの心に響かせてください、と神に懇願していた。そして、最終的には、ピノトゥ自身が決断するのを待っていた。その上、アルベリオーネ神父の指導司祭であり、アルバ神学校の哲学教授でもあるカノニコ・キエザ(Canonico Chiasa )神父にも相談してみなさい、とピノトゥに勧めた。ピノトゥは、キエザ神父に相談した後に、こう書いている。「私の話を聞いてから、キエザ神父様は、出版使徒職こそ確かに私の召命である、とおっしゃいました。そして、この召命を私の活動分野と決め、これに生涯を賭けたら、と勧めてくださいました」と。二人の賛同を得て、ピノトゥは喜びで高鳴った。3月10日(土曜)の日記には、その時の心境を次のように記している。
お恵みをいただきました。召命がわかり、これを決定し、選んだのです。あとは神のみ手にある実行だけです。私の心は穏やかです。神様、あなたの精神的光に感謝いたします。マリア様、あなたは私の母であり、私のすべてであり、このきわめて特異な召命を得させてくださいました。この召命に向けて私を養成してください。
ピノトゥは聖パウロカトリック教会への召命について父親とも相談してから、教区長のレ司教の許可をいただくことにした。4月13日、ピノトゥは今までの経緯と内心の動きを謙虚に説明して、許可を願った。レ司教は表情一つ変えず、黙って聴き入ってから、意地悪とも思える質問をした。「君をもう神学生ではないということにしたら、それでも、スータンを脱ぎ捨ててアルベリオーネ神父のところへ行く覚悟はあるかね?」と。
ピノトゥはジレンマ(板ばさみ)に陥り、しばらく考え込んだ。ピノトゥにとってスータンは自分の精神生活を守り、豊かにし、あくまで召命に応え、司祭職へ到達するための保証にもなっている。私服に戻るなんて考えられない。しかし、自分の最高責任者がスータンを脱げと言えば、それはイエスのみ心と受け取らざるを得ない。嫌でもスータンを脱いで新しい召命に応えよう。こう決断したピノトゥは、うなだれた頭をもたげて「はい、スータンを脱ぎます」と答えた。レ司教は、「もえ少し考えてみたら……」と促しただけで、何時ものとおり口数少なく、それ以上何も言わなかった。
その後、ピノトゥは、アルバ神学校長ダヌッソ(Danusso )神父のところへ言って相談してみた。校長にしてみれば、以前から、ピノトゥがアルベリオーネ神父のところに行くのではないか、と薄々感じていたが、神学校内ではきわめて評判のよい、優秀な学生だったので、ゆくゆくは母校の専任教授にでも……という思惑はあったものの、「まったく君の自由に任せる」と、きわめておおらかだった。それにしても、ピノトゥは、教区長の判断がどうなるかという不安と焦りの入り交じった気持ちで、祈りながら時を待った。こうして、一ヵ月以上が過ぎ去った。そして、ついにその日が来た。
同じ年の5月23日、レ司教は再びピノトゥを呼び、真剣な面持ちで「神学の何年生なのか?」と口火を切った。それから本題に入り、以前からの難題を容赦なく持ち出したのである。「神学生の身分でいるなら、神学校内にいなければいけない」と。ピノトゥは固い決意のほどを示した。「アルベリオーネ神父のところに行きます」と。
ピノトゥが「聖パウロ会に入会するのではないか」、といううわさは、以前からアルバ神学校内にも立っていた。「軽率だな! 海の物とも山の物ともわからない出来たての修道会に入れば、何もかもパーになることさえあるのになあ……」と、気を病む教授や同僚が何人かいた。当時のピノトゥの内面では、どのようなドラマが展開されていたのか……、その日記の中に、こう描かれている。
私をかわいがってくださる方々が、私のためになるように次のことを、心底から諭してくださるのです。私が祈ってきたのであれば、司教様の仰せられたことは神のみ旨ですから、上司に従うべきで、後輩に従うべきではありません……。また、アルベリオーネ神父様の修道院では、私の望むような司祭にはなれない…… というのです。それに、アルベリオーネ神父様が神のみ旨を行っているとは言い切れないし、自分のところに私を呼んだのは、損得勘定で役に立つからであり、後で役に立たないとわかればお払い箱になるよ、とも言うのです。さらに、キエザ神父様は、これについて実際に“こうしなさい“と勧める資格はない、と言われるし、ある人は、私はジャーナリストとしての適性が欠けていると言っています。また、私がアルベリオーネ神父様を慕っているのは、神父様が相変わらず援助してくれているからだよ……と言う人もいるし、あの神父様から催眠術でもかけられているのでは? とまで言い出す人もいるのです。
それでもピノトゥは揺らぐどころか、こう決断した。
イエス様、このスータンをあなたにお返しいたします。私にとっては、かなりの大きな犠牲を払うことになります。そうすれば、いつもマリア様を通して、あなたのみ心に司祭職と出版使徒職……への私の召命を託します。私は先が見えなくても、あなたのみ心に全幅の信頼を寄せており、安らぎさえ覚えます。また、私の「おん母」にまったく信頼し、そのおん腕に抱かれて安らいでいます。あなたへの、教皇への、司教たちへの、教会への忠誠の誓いをいっそう忠実に守り、そのために私をささげ尽くしたいと思います。神の招きに対する障害となるものはすべて、イエス様のために本気で切り捨てました。すなわち、神学校への、神学生たちへの、長上たちへのきわめて親密な愛情を断ち切り、家庭の団らん、他の人びとからの名声、スータンまでも放棄します。このような剥ぎ取られていくと、痛惜の思いに苦しみ、屈辱感さえ覚えますが、イエス様のためなら、これらのものを捨て去る覚悟はできています。
こんな時にピノトゥの心の支えとなったのが、指導司祭アルベリオーネ神父である。「君の召命はきわめて確かなものだよ。だまされたと思うなら、福音書を破り捨てたらいいよ」と諭していた。アルベリオーネ神父はピノトゥの素質を見込んで、自分の事業の協力者にしたい、とひそかに望み、ピノトゥの知的面も霊的面も養成し、学費の援助もしてきた。しかし、教区司祭の道を選ぶか、アルベリオーネ神父の創立した聖パウロ会への道を選ぶかは、ピノトゥ神学生の決断に任せていたのである。ピノトゥは再び、アルベリオーネ神父に、司祭になれるかを確認した上で、聖パウロ会への入会を請願し、その承諾を得た。
教区長から出されてジレンマに陥るほどの難題は、司教の立場をはっきりさせておくためのものというより、実情はピノトゥの決意が固いかどうかを試すためのものだったのである。ピノトゥは、このジレンマに苦しみもだえながらも、結局は、これによって自分の決心を純粋に固めていったのである。
6月4日、ピノトゥは、ようやく「マニフィカト」を心おきなく歌うことができた。ピノトゥの言葉を借りれば、聖母があらゆる難しい問題を解決してくださったのである。もう前途をさえぎるものはない。司祭職への妨げもない。教区長を通して、ピノトゥ神学生に、夏休みをアルベリオーネ神父のところで過ごしてもよい、と知らせてきたのである。
これより先に、アルベリオーネ神父は、神学校長に、一人の神学生を臨時に聖パウロ会へ派遣し、志願者たちの指導補佐をしてくれることを願い出ていた。当然 “一人の神学生“はピノトゥであることを念願していた。アルベリオーネ神父は、アルバ神学生で毎週13時間の授業を受け持っていた上に、創立まもないパウロ家の基礎がためのために多忙を極めていたからである。
アルベリオーネ神父は、このあたりの事情をこう書いている。
校長に以上のお願いをしますと、校長はすぐさま、こう言いました。「あの子(ピノトゥ)は、あなたのところへ行っていたとばかり考えていました」と。それに校長は、毎土曜日に司教のところへ行って告白を聴いていましたから、校長がピノトゥのことを司教に話したところ、司教はこの件についてついに承諾してくださいました。
・『マスコミの使徒 福者ジャッカルド神父』(池田敏雄著)1993年
※現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し掲載しております。