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会員たちのコラム

日数谷修道士と歩んだ日々 楠本正良修道士

 まずは彼が元気な頃の思い出を振り返ることにします。彼は青年の頃、漁師として働いていたところを、パウロ山野修道士の勧めで入会しました。海(黒島)と湖(ガリラヤ)の差こそあれ、聖書のイエスと弟子たちの場面が浮かぶようです。

 日数谷修道士は、長崎・佐世保の黒島教会出身です。その黒島へ出・入港するフェリーが相浦から出るのですが、私が隣の相浦教会出身ということで、親近感がありました。

 さて、使徒職の話になりますが、60年以上前のことです。第二ヴァチカン公会議後の「サンパウロ」(旧中央出版社)の頃を経験し、活版印刷(活字を組み込み並べた組版を用意、それに塗料を塗り紙へ転写し印刷すること)、さらにはオフセット印刷(現在の印刷方式。凸凹がない平らな板を使うため平板印刷とも呼ばれる)と大忙しの時でした。印刷は技術がいる使徒職でしたので、先輩方に教えてもらいながら、『第ニヴァチカン公会議公文書』の第7巻まで、活版印刷で頑張ったのは大きな出来事だったと思います。

 またオフセット印刷では『教会の祈り』初版本を作るという、これも大仕事でした。印刷紙が薄くて、静電気のため紙が揃わず、苦労しながら刷り上げていく。日数谷修道士のその姿は忘れることができません。

 印刷工場が無くなり、八王子の地を離れてから30年の時を迎えましたが、日数谷修道士が担当していた軽印刷機は残りました。年齢が80代になっても続けていました。近年は、塚本修道士が軽印刷機を引き継いでくれたので、胸をなでおろしていたようでした。

 修道院での日数谷修道士は、頼りがいのある方でした。修道院の花の手入れ、聖堂の花の飾りつけをはじめ、エアコンの掃除や、水道の漏れを修理してくれたり。さらに、魚をさばいたり、包丁を研いだりしていただきました。彼の器用さも発揮されていました。

 日数谷修道士の晩年は、立て続けに病気が襲いました。特に心臓病が中心でした。

 1回目は「冠動脈瘤」の手術。2回目は「心臓弁膜症」で、心臓の弁を人工弁に取り替えるカテーテル手術。この2度の手術は乗り越えることができました。その後、薬を飲みながら、定期的に循環器内科の検査・診察・薬の補給を受けるため、病院通いが増えていきました。

 2021年になってから、レントゲン検査にて難病指定の「全身性アミロドーシス』を発症しました。この症状は、いろんな臓器が硬直していく病気でした。特種薬を出してもらい、毎日服用して、病気の進行を抑えていました。

 しかし、病状は良くない方に加速しました。2023年1月14日、体の調子が悪いとのことで即入院することになりました。入院してからは、コロナ禍で直接あうこともできず、必要な物を届けて荷物受付者に渡すことの繰り返しでした。

 1月25日、退院となりましたが、病院でもほとんど食べずにいたせいか、状態はあまりよくなく、体重が48kgになっていました。すぐにベッドから離れられなくなり、食事もほとんど喉を通さなくなってきました。

 2月に入ると、新型コロナウイルスに感染してしまい、修道院では手の打ちょうがなく病院に再び入院することになりました。ここが日数谷修道士の最後の入院先になりました。延命治療を望まなかった彼は、2023年2月24日午前3時48分『急性呼吸循環不全』にて帰天しました。87歳の生涯でした。

 何度も「悪いね、ありがとう。」と、日数谷修道士から感謝の言葉をかけていただきました。その言葉で私の肩の荷も消えていきました。最期には、ベッドの側で「みんなによろしく。」という言葉を聞きことができました。

 日数谷修道士と出会えて感謝の気持ちでいっぱいです。

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