12月に入りそれぞれの家では、「大掃除」を始める頃ではないでしょうか。では、どうして年末の忙しい中にわざわざ「大掃除」をするのでしょう。それは、「煤払い」からきているようです。これから迎える新しい年を司る「年神様」を自分の家にお迎えするために「大掃除」をして清める、ということのようです。では、洗礼の恵みを頂いている私たちは、家だけではなく、【心】の大掃除をすることも忘れてはならないのかもしれません。
きょうのみことばは、マルコ福音書の最初の場面です。マルコ福音書は、マタイ福音書やルカ福音書のようにマリア様もヨセフ様も出てきませんし、そもそも「幼子イエス」の姿も出てきていません。マルコ福音書の最初は、イザヤ書が書き記された後に、洗礼者ヨハネが出てきています。次の場面でようやくイエス様が現れますが、もうすでに、成人したイエス様で「イエス様の受洗」の場面が記されています。このように、見ていきますとマルコ福音書は、『共観福音書』の中では、簡略化されているように思えます。
しかし、マルコ福音書は、「イエス様がメシアとして私たちの所に来られる素晴らしさ」を強調しているのかもしれません。みことばは「見よ、わたしはあなたの先にわたしの使いを遣わし、あなたの道を整えさせよう。」と始まっています。この中で、「わたし」というのは、おん父です。そのおん父が「見よ」と言われて私たちに「注意」を促します。続いて「あなたの先に」というのは、イエス様がお生まれになられる先に、「わたしの使い」である洗礼者ヨハネを遣わし、イエス様が来られる道を整えさせる、と言われます。
みことばは続けて「荒れ野に叫ぶ者の声がする、『主の道を整え、その道をまっすぐにせよ』」と記しています。この節は、イエス様がお生まれになられる前に、おん父が自ら洗礼者ヨハネを遣わし、私たちのために独り子であるイエス様をこの世に遣わされること、そして、いかに私たちを愛されているのか、ということが心に響いてくるのではないでしょうか。
イザヤ書の引用の後には、洗礼者ヨハネが登場します。みことばは「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れ、罪の赦しへと導く悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた」とあります。洗礼者ヨハネは、まさに「荒れ野に叫ぶ者」とあるように、【荒れ野】に行き、そこで「罪の赦しへと導く悔い改めの洗礼」を人々に授けます。どうして洗礼者ヨハネは、人が好んで行かないような【荒れ野】にわざわざ退いて「罪の赦しへと導く悔い改めの洗礼」を授けたのでしょうか。
彼がおん父から遣わされた【使命】は、人々が自分たちの罪深さに気づき【悔い改める】ためでした。そのためには、賑やかな町の中ではなく、本当におん父と自分が向き合える場でないと、真の【悔い改め】が出来ないからなのです。例えば、私たちが「ゆるしの秘跡」をいただく時には、静かな聖堂や自分の心、日常生活、信心生活を振り返るために相応しい場所を選ぶのと同じです。そして、ゆっくり振り返って「私がおん父からどれほど愛されていたのか、それにも関わらず私が、おん父のみ心から離れていたのか」を見つめる時間を持つことでしょう。この【時】この【場】が【荒れ野】というのではないでしょうか。
さらに、【荒れ野】というのは、私たちの【荒んだ心】と言ってもいいかもしれません。イザヤ書の引用の中には「主の道を整え、その歩む道をまっすぐにせよ」とあります。私たちは、自分が【荒んだ心】であることに気づき、イエス様が私たちの中に来られるように整える必要があるのです。しかし、それは【私】だけの力でできることではないのです。私たちが【荒んだ心】を整えるためには、洗礼者ヨハネの声が必要なのです。それは、【聖霊】の助けと言ってもいいでしょう。聖霊は私たちがおん父から離れていることを気づかせ、おん父の方に向かわせます。イエス様は、私たちがおん父の方に向かい始めることで私たちの心の中にお入りになられるのです。
ペトロの手紙の中に「……主は、誰一人滅びることなく、すべての人が悔い改めるようにと、あなた方に対して忍耐しておられるのです」(2ペトロ3・9)とあります。おん父は、私たちがご自分から離れているのをご存知なのです。それでも、アガペの愛を持って私たちが滅びるのを望まれず、【悔い改める】ように、聖霊を遣わして促し、ご自分の方に向かうように【忍耐】しておられるのです。
洗礼者ヨハネは「わたしよりも力のある方が、後からおいでになる。……わたしは水で洗礼を授けたが、その方は聖霊によって洗礼をお授けになる」と言います。洗礼者ヨハネは、謙遜に自分の位置を受け入れ、忠実におん父のみ旨である【悔い改め】へと人々の心を促します。私たちは、洗礼者ヨハネと同じな【使命】を頂いているのです。私たちは、自分が【悔い改める】だけではなく、おん父の方に向きを変えることで、今度は、周りの人々にもおん父へと向かわせる使命を頂いているのです。私たちは、イエス様をお迎えして、イエス様と共におん父の使命を行うことが出来たらいいですね。