典礼の上では今日が年末になります。福音の内容も最後の審判を意識したものです。私たちの歩みが、キリストの意にかなったものであるか問われているのではないでしょうか。キリストは種々の状況の人々に対して、どのように接しているかを問いかけていきます。
まず「飢えておられるのを見て食べ物を差し上げた」か。キリスト自身、十字架上で苦しみ、飢えを体験しました。私たちは同様な境遇の人に、食べ物を差し上げているでしょうか。「のどが渇いていた時に飲ませ」てくれたか。キリスト自身、十字架上で「すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』」(ヨハネ19・28)と言われます。「旅をしていたときに宿を貸した」でしょうか。キリスト自身、誕生にあたって両親は旅をしていました。しかし「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」(ルカ2・7)と言います。お腹が大きくなったマリアにとって宿がないのはどんなに辛い旅だったでしょうか。「裸の時に着せ」たでしょうか。イエス自身の体験として、十字架上において「兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった」(ヨハネ19・23)ように、裸の状況にさらされます。「病気の時に見舞い」に行ったでしょうか。イエス自身、病人には積極的に関わり、癒していきます(特にマタイ8~9章)。「牢にいた時に訪ねた」でしょうか。イエス自身、罪がないにもかかわらず捕らえられ、牢獄のような体験をしていきます。
種々の状況について、イエス自身の体験をもとにこれらのことばを語っていきます。しかも、「最も小さな者」として自らを差し出していきます。イエス自身がまず体験されていったことを思うと、私たち自身の他者への対応の仕方も変わってくるでしょう。