パウロの最期は、新約聖書のどこにも記されていません。『使徒言行録』が記しているのは、パウロのローマでの二年間の軟禁生活までです。パウロが殉教するのはこの後です。
パウロの殉教に関する最初の記録は、ローマのクレメンス司教(在位88—97年)が、コリントの信徒にあてて書いた手紙です(一コリント5・2)。そこではペトロとパウロの殉教が並べて記されています。「ペトロは一度ならず幾多の苦難を耐え忍び、こうして証を立て、彼にふさわしい栄光の場へと赴いた。……パウロは全世界に義を示し、西の果てにまで達して為政者たちの前で証を立て、世を去り、聖なる場所へと迎え上げられた。」
さらにカイサリアの司教エウゼビオス(四世紀)は、次のように記しています。「ネロの時代にローマでパウロが斬首され、ペトロも同様に串刺しの刑にされたと言われる。それは、ローマの墓に今日まで残っているペトロとパウロの名……によって裏づけられている。」(『教会史』2・25・5)
エウゼビオスはその根拠として、二世紀初頭のローマの司祭ガイウスの次の言葉を引用しています。「私は使徒たちの勝利の記念碑を示すことができる。もしあなたがバチカンかオスティア街道を行けば、この教会を建てた者たちの勝利の記念碑を見るだろう。」(『教会史』2・25・7)
パウロの殉教の様子を最初に描いたのは、二世紀末頃に書かれた『パウロ行伝』です。これは空想と信心が生み出した文学作品です。「パウロは東に向かって立ち、天に向けて両手を上げ、長い時間祈った。祈りの中で、ヘブライ語で父祖たちと語り合った。その後、無言で首を差し出した。執行人が首を刎ねると、乳が噴き出し兵士の服に飛び散った。これを目撃した兵士とそこに居合わせた人々は皆驚き、パウロにこのような栄光をお与えになった神に栄光を帰した。」(『パウロ行伝』9・5)
斬首された時、パウロの首が三回転がり、そこからそれぞれ泉が湧き出したので、そこは「三つの泉」(トレ・フォンターネ)と呼ばれるようになったと記すのは、五世紀に書かれた『ペトロとパウロの殉教』です。
以上が、パウロのローマでの斬首を記した主な記録です。
パウロの墓の上に最初に教会を建立したのはコンスタンチヌス大帝(在位306—337年)です。その後、四世紀から五世紀にかけて大幅に拡張され、一八〇〇年の火災を経て、現在のサンパウロ・フォーリ・レ・ムーラ(城壁外の聖パウロ大聖堂)が建立されました。大聖堂の祭壇下に納められた荒削りの大理石の石棺には、一世紀から二世紀の間に生きた人の骨が納められていることが確認されています。