「女の頭は男。男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られた。」(一コリント11・4、9)
コリントの教会の集会において、「ベールをかぶらない女性」が登場しました。これに対して、パウロは「ベールをかぶるように」と、指示を出しますが、その理由として挙げられているのが、上の言葉です。
パウロは「キリストにおいては、男も女も皆等しい」と教えました。その結果、コリントのある女性たちは、ベールをかぶらないで祈りや預言をするようになったと考えられます。
パウロは、公の集会において、女性たちが指導的な役割を果たすことには、何の抵抗もありませんでしたが、「ベールをかぶらないで集会に出席する」ことには反対でした。
その理由として、パウロは「神・キリスト・男・女」という「創造の序列」を持ち出します。「女の頭は男。……」は、この序列を表す言葉です。ここで注意したいことは、パウロの中では、「女はベールをかぶる」という決定が先にあって、その理由付けとして「創造の序列」が持ち出されているということです。
パウロは、序列の論理が説得力に欠けることを承知しています。ですから、彼の論旨は揺れ動いて定まりません。「創造の序列」を説いたすぐ後に、「主においては、男なしに女はなく、女なしに男はない」(一コリント11・11)と、「平等の論理」を展開します。さらに「女が男から出たように、男も女から産まれ、また、全てのものが神から出ている」とも続け、挙句の果てに、「この点について、異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、私たちにも神の教会にもない」と言って、議論を打ち切ってしまいます。
パウロは「ベールをかぶるべき」根拠として「創造の序列」を持ち出してはみたものの、説得力に欠けるので、最終的には、慣習に訴えているのです。
パウロがここで援用した「創造の序列」は、キリストにおける「新しい創造」によって乗り越えられたこと、今や「キリストにおいて、男も女も差別されない」ことを、パウロは確信していました。「大切なのは新しく創造されることです」(ガラテヤ6・15)と言い切ったパウロですから。
にもかかわらず、パウロが古い「序列の論理」を引っ張り出し、また慣習に訴えてまでして、「女はベールをかぶるべきだ」と主張した、真の理由は謎です。
パウロが「序列の論理」を持ち出さなければ、歴史は変わっていたかもしれません。この時、パウロの中の「古い女性観」が働いたのでしょうか。あるいは、何らかの「司牧的な配慮」が働いたのでしょうか。
ベールをかぶらない女性たちが「奇異」に感じられ、周囲からは批判の声が上がっていたのでしょうか。彼女たちの、髪を振り乱して祈り預言する姿に、周囲が困惑していたのでしょうか。
いずれにせよ、パウロには「古い創造の序列」が、キリストにおける「新しい創造」によって、乗り越えられたという確信がありました。ただ、パウロに続く多くの人々は、このことを、十分に受け継ぎませんでした。
その結果、パウロの表現は、当人の意図をはるかに越えて理解され、性差別を肯定し、温存する根拠とされたことは、悲しい歴史の事実です。