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これってどんな種?

礼服という種 年間第28主日(マタイ22・1〜14)

 私たちは、何か特別な行事、自分にとって大切な日のお出掛けの時は、普段と違う服装を選びます。例えば、お友達と食事をする時、慶弔の儀式に出席する時などには、それに相応しい服装を選びます。では、私たちがミサに行くときはどのような服装で行くでしょうか。

 きょうのみことばは、王が王子の結婚の披露宴を催すという場面の喩え話です。イエス様は、祭司長や民の長老たちに向かって喩えを語られ始められます。その喩えは、「天の国は次のように喩えられる。ある王が王子のために結婚の披露宴を催した。」と始められます。この喩えの中で王は、おん父を表していますし、王子はイエス様のことです。そして、これから出てくる、僕とは、おん父から遣わされた預言者であり、新約における弟子たちのことを表していますし、招待客というのは、祭司長や民の長老という宗教的な指導者を指しています。

 福音書では、イエス様が何度も繰り返し祭司長や民の長老、ファリサイ派の人や律法学者に対し、回心しておん父のみ旨を行うように促しています。今回の喩え話も彼らに対してのもので、イエス様が彼らへのアガペの愛の表れと言ってもいでしょう。

 さて、王は、この宴に招待するために僕を遣わして招いた人を迎えに行かせます。しかし、その人たちは来ようとしませんでした。この僕は、旧約の預言者を表しています。おん父は、イスラエルの民を愛されていましたので、ご自分のみ旨から離れている人々に対して、何度も預言者を送り彼らを回心させようとしました。しかし、彼らの反応は、「来ませんでした」とありますように、せっかくおん父が彼らのために遣わした預言者の声に耳を傾けなかったのです。

 さらに王は、僕たちを遣わしますが「宴の用意が整いました。牛や肥えた家畜も屠って、すべての用意は整いました。さあ、披露宴においでください」と言わせます。こちらの僕たちはイエス様の弟子たちを表しているようです。弟子たちは、遣わされたおん父のみ旨を人々に忠実に伝えるという使命を持っています。ここでは【用意が整いました】【牛や肥えた家畜も屠って】【すべて整いました】ということです。これらは、すべて王であるおん父がご準備なさったのです。イザヤ書に「万軍の主は、この山上で、すべての民のために宴を開かれる。それは美味な肉の宴、熟したぶどう酒の宴、脂滴る肉とよく漉(こ)したぶどう酒。」(イザヤ25・6)という箇所と似ています。聖書の中に出てくる【山】というのは、神聖な場所ですから、この【山】は、主であるおん父がおられる場所ということになり、この宴は、おん父が自ら【すべての民】のためにご準備なされます。

 僕たちは、王に言われたように招待客の所に行って彼らに伝えますが、彼らはそれを無視して、ある者は畑に、ある者は商売に出かけ、他の者は王の僕たちを捕まえて辱め、殺してしまいます。マザーテレサは、「愛の反対は、憎しみではなく【無視】です」と言っています。王が招いた客は、王の【愛】の呼びかけに応えようとせずに、【無視】したうえに自分たちの仕事を優先し、僕たちを殺してしまいます。彼らの耳には、おん父の【アガペの愛】のメッセージが伝わらなかっただけではなく、弟子たちに対して迫害をして殺してしまいます。

 王は、怒って軍隊を差し向け人殺したちを滅ぼし、その町を焼き払います。どこまでもアガペの愛であるおん父は、【天の国】である【宴】の中に頑なで不忠実な者、不正義な人を入れるわけにはいけなかったのです。これは、おん父のみ旨を行おうと集まった人々を守るためでした。

 王は、3度目に「……大通りに行って、誰でもよいから、出会う人を披露宴に招きなさい」と僕たちを遣わします。彼らは、通りに出ていき、悪人であれ善人であれ、出会う人をみな集めてきます。それでようやく婚宴の席はいっぱいになるのですが、その中に【礼服】をつけていない人がいました。今度は王が自らその人に「友よ、どうして婚礼の礼服をつけずに、ここに入ってきたのか」と尋ねられます。王は、この人に対して愛を持って【友よ】と問い尋ねるのですが、彼はそれに対して【無視】したのです。もし、彼が着てこなかった理由を伝えたのでしたら、きっと王はゆるしたことでしょう。

 この【礼服】とは、キリスト者としての、【信仰と業】を指していると同時に、私たちの【回心への傾き】と言ってもいいでしょう。どうしようもない罪人である私たちは、おん父の「友よ」と愛情を込めて呼びかけにどのように応えているでしょうか。彼は、『タラントン』の喩え(マタイ25・14〜30)の中で1タラントンを預かった人が土に埋めてしまうのと同じように、おん父からの恵みを【育てること】と、【回心への心】を怠ってしまっていたのです。

 きょうのみことばは、私たちのキリスト者としての振る舞いを省みる良い機会ではないでしょうか。私たちは、おん父の声に耳を傾け、み旨に応えながら【礼服】を身につけて天の国の宴に与ることができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

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