私たちは、人から何かを頼まれた時、まず、「私はこれができるだろうか」と考えるのではないでしょうか。例えば、能力や技術の面で、または、できるとしても、時間的に余裕があるかどうか、依頼者に対して満足できる対応ができるかなど、今の自分を振り返って返事をいたします。
きょうのみことばは、2人の息子の喩え話です。イエス様は、「ところで、あなた方はどう思うか」と言われます。この「あなた方は」というのは、エルサレムの神殿にいる「祭司長」や「律法学者」そして「民の長老」に対して問いかけています。彼らは、イエス様がエルサレムの神殿に来られた時、神殿の境内で物を売り、両替をしている人たちを追い出し、また、盲人や足の不自由な人たちを癒しているのを見て、憤りを感じていました。さらに、彼らは、後日、イエス様の所に来て「何の権威があって、あのようなことをするのか。誰があなたに、そのような権威を与えたのか」と尋ねます。それに対して、イエス様は、「わたしもあなた方に尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威を持って、あのようなことをするのかを言おう。『ヨハネの洗礼はどこからのものか。天からのものか、それとも人からのものか。』と言われます。祭司長や民の長老は、このイエス様の問いに対して、自分たちを守るために「分かりません」と答えます。(マタイ21・12〜27参照)
このような出来事があった後、イエス様は、彼らに対して「あなた方はどう思うか」と問われたのです。イエス様は、彼らが洗礼者ヨハネの洗礼が、天からのものだと答えた場合、「どうしてヨハネを信じなかったのか」と言われるのを恐れていること、「人からのものだ」と答えると、洗礼者ヨハネを信じていた民衆を恐れていることをご存知でしたし、彼らがそのような保身的な考え方に気づくように(マタイ21・25〜26参照)、一つの喩え話をされます。
イエス様は「ある人に2人の息子があった。彼は長男の所に行き、『息子よ、今日、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。長男は、『いやです』と答えた。しかし、後で思い直し、出かけていった。」と話されます。もしかしたらこの時期は、ぶどう園での収穫の時期だったのかもしれません。それで、忙しくて人手が足らなくなり、父親は自分の息子に一緒に働いて欲しかったのでしょう。しかし、残念なことに、「いやです」と断られます。
この喩えに出てくる「父親」は【おん父】のことを指していますし、「2人の息子」というのは、イスラエルの人々であると同時に私たち一人ひとりのことを指しています。さらにぶどう園は、「神の国」を指しているようです。父親は、息子の「いやです」という返事を聞いてきっと悲しい気持ちになったことでしょう。息子ですから小さい頃からぶどう園に行っている父親の姿を見ているので、この時期がどんなに忙しいかを知っているはずなのに「いやです」という返事をもらったのです。
ではなぜ、兄は「いやです」と答えたのでしょうか。彼と父親との関係がうまく行ってなかったのか、他に用事があってできなかったのか、自分が父親の要求にうまく応えることができるか自信がなかったのか、あるいは、ただ単に行きたくなかったのか、いろいろな理由があったのかもしれません。しかし、この兄は、【後で思い直して】出かけていきます。きっと、父親は、ぶどう園に働きに来た長男の姿を見て喜んだことでしょう。
兄に断れた父親は、弟の所に行って同じように頼みます。弟は「お父さん、承知しました」と返事しますが、彼はぶどう園に行きませんでした。弟は、プライドがあり、自分は何でもできる、父親の意に沿うことができるという利己心や共栄心を持っていたので「いやです」と言えなかったのでしょう。ただ、実際は、残念なことに弟は、行きませんでした。パウロは、「対抗意識をもったり、見栄を張ったりせず、へりくだって、互いに相手を、自分より優れたものと思いなさい」(フィリピ2・3)と言っています。もし、弟にこのような気持ちがあったら、きっと、兄のようにぶどう園に行くことができたでしょう。
さて、イエス様は「あなた方によく言っておく。……あなた方は彼を信じなかったが、徴税人や娼婦たちは彼を信じたからである。あなた方はそれを見てもなお、悔い改めにヨハネを信じようとしなかった。」と言われます。イエス様は、「これらの小さい者が滅びることは、天におられるあなた方に父のみ旨ではない」(マタイ18・14)と言われているように、祭司長や律法学者たちが滅びることがないように、再三悔い改める機会を彼らに与えられますが、彼らが徴税人や娼婦が回心したのを見ても、回心することができなかったことを指摘されます。彼らのプライドや傲慢さが彼らを回心へと導くのを邪魔したのでしょう。
私たちは、自分がどのような状態であっても思い直して、謙遜な心でおん父の呼びかけに応えて、【ぶどう園】で働くことができたらいいですね。