二人の息子の話が登場します。兄と弟というと、ルカ15章に出てくる放蕩息子の兄と弟の状況が浮かんできます。そこでは弟の回心が描かれていますが、今日のマタイ21章の福音では、兄の回心が描かれています。
その舞台はぶどう畑。子どもの頃、父がぶどうを栽培していましたので、手伝いをさせられ、とてもきつい仕事だったことを記憶しています。冬に枝の剪定、春に畑の耕作と肥料の配布、初夏になると下草払いや袋かけなど。兄が「いや」と言いたくなるのも分かります。しかし、兄は後で考えなおし、行くようになります。それに対して弟の方は最初「はい」と答えながら、実際には行きませんでした。ここで、兄のように「いや」と答えた人の立場として、徴税人や娼婦たちが先に神の国に入ることを語ります。
徴税人は不当に税を取り立て、私腹を肥やしていた立場の人たちで、世の中の多くの人たちから嫌われていた立場でした。また娼婦たちは社会の中で白い目で見られていた立場の人でした。そういう人たちが回心して神の国へ導かれていくことを福音記者は語っていきます。回心して多くの人が導かれていく過程をよく示してくれることばです。
回心というと旧約聖書のエゼキエル書にも出てきます。そこにはバビロン捕囚が背景にあり、この苦しみのために多くの人々が希望を失っていました。そんな彼らに対してエゼキエルは希望を持つように働きかけていきます。
今日の第一朗読のことばは印象的です。「イスラエルの家よ、わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないか。正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである」(エゼ18・25~26)。捕囚の苦しみは、私たちの回心、悔い改めがないからだとエゼキエルは指摘していきます。こうした回心への呼びかけはエゼキエルの何度も何度も行い、最終的には人々が回心していきます。
私たちは日々の生活の中で、どのように回心しているでしょうか。