『フィレモンへの手紙』に登場する逃亡奴隷オネシモは、後にエフェソの教会の司教様になったという可能性はありますが、証拠はありません。
エフェソにオネシモという司教がいたと証言しているのは、アンティオキアのイグナチオです。この司教はキリスト者に対する見せしめとして逮捕され、ローマのコロセオで野獣に殺されて殉教しました。彼の殉教は西暦110年と推定されています。イグナチオはローマに護送される途中、スミルナやトロアスにしばらく滞在しましたが、彼がスミルナに滞在中に、エフェソの司教がイグナチオに面会に来ました。この司教の名がオネシモでした。これはイグナチオが書いた『エフェソの教会への手紙』の中に明記されています。イグナチオ司教とオネシモ司教がスミルナで出会ったのは、西暦109年か110年のことでしょう。
いっぽう、パウロがフィレモンに宛てた『フィレモンへの手紙』に記されている逃亡奴隷オネシモがパウロに会ったのは、エフェソにおいてで、西暦53年頃と推定されます。この二つの出来事の年代差は、57年程です。
この二人のオネシモが同一人物か否かについては、何とも言えません。ただその時間差が57年程度ですから、同一人物である可能性は残されています。逃亡奴隷オネシモがパウロに出会った時、オネシモが血気盛んな18歳であったとすれば、イグナチオ司教とスミルナで面会したとき、オネシモは75歳になっていたことになります。あり得ない話ではありません。
『フィレモンへの手紙』が大切に保存され続けたのは、それが司教オネシモの若かりし頃のことを記した手紙であったからだと考える人もあります。事実、パウロの手紙の多くが後代に編集され、その一部は捨てられました。パウロ自身が手紙を書いたと言っているものの、失われて、現代には残っていない手紙もあります。こうした事を考え合わせると、たいへんユニークではありますが、教義的には重要とは思えない『フィレモンへの手紙』が失われなかったのは、それなりの理由があったためと考えることもできます。
奴隷が司教職に就けるのかという疑問もありますが、これは当時の教会では問題になりません。当時、教会にはたくさんの奴隷がいましたし、教会の役職についていた奴隷もいました。
「逃亡奴隷オネシモ」と「エフェソの司教オネシモ」を結ぶ確証はありません。結びつきを否定する確証もありません。