先週のみことばで、ペトロはイエスに対して「あなたはメシア、生ける神の子です」と、とても素晴らしい信仰告白をしました。それに対してイエスは、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。…わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」(マタ16・18)と言っていきます。ペトロにとっては、とても素晴らしいお褒めのことばをいただいた瞬間でした。
ところが、今日のみことばは一転していきます。イエスはエルサレムで「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」ことを語ると、ペトロはイエスを脇へ連れていき、「主よ、とんでもないことです」といさめ始めます。「いさめる」とは、ギリシア語では「エピティマオー」が使われ、「叱りつける」という意味もあります。弟子のペトロがイエスを「叱りつける」訳ですから、主従関係が逆転したような状況ではないでしょうか。ペトロにとっては、イエスが十字架上で殺されていくことがよく理解できなかったのでしょう。それまでイエスは、この苦しみについて語っていましたが、ペトロにはイエスのことがよく分かっていなかったことになります。イエスは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と語ります。自分の十字架を担うことを語ります。
さて私たちにはどんな十字架があるでしょうか。今、管区秘書の仕事をしていますが、修道会の動きや会員たちの心身の健康のことが気になったりします。また同時に月刊誌の「家庭の友」の編集の仕事をしていますが、毎月の編集作業とともに、原稿依頼、取材、取材後のテープ起こし、それを原稿にしていく作業、発送業務など、いろいろなものがあります。十字架と言えば、十字架ですが、勉強の機会です。
人それぞれにいろいろな十字架があります。その十字架は、自分自身が成長していくための絶好の機会なのかもしれません。