カナンというとユダヤ人にしてみれば、異邦人の地になります。救いの立場からすれば、まず選ばれたユダヤ人の救いがあり、そのあとで異邦人の救いと彼らは考えていたのでしょう。でも今日のみことばを読んでいくと、そうでもないようです。
カナンの女性は、自分の娘の治癒のためイエスに対して「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください」と叫びます。通常、「ダビデの子」という言い方は、ユダヤ人が使う言葉ですが、異邦人の彼女も、それを越えてこの言葉を使います。彼女の切実な思いが伝わってきます。
そんな彼女の姿に弟子たちは「この女を追い払ってください」と言います。しかも叫びながらイエスにつき従うところに、通常ではない必死な願いが感じられます。しかもイエスなら必ず聞き入れてくださるという確実な思いが、彼女にはあったのではないでしょうか。また彼女のひれ伏す姿に、謙虚さや必死な姿が目に浮かんできます。なおも彼女は続けて「主よ、助けてください」と。必死になって願えばキリストは必ず聞き入れてくださる事実を、今日の内容は私たちに訴えてくれます。ともすれば私たちは簡単にも諦めてしまいがちですが、自分の娘を是非とも癒してほしいという思いにかられ、彼女の願いがイエスの心を動かしています。
彼女の信仰に対して「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」と称賛します。時には私たちも先生などからおほめの言葉をいただいたりもしますが、イエスのほめ言葉は最高であるし、決して人間的ないやみなどが含まれていません。
私たちの信仰はどのようなものでしょうか。私たちの願い方はどんなものでしょうか。必死に願うカナンの女性の姿を振り返りながら、私たちの歩みを見つめたいものです。