パウロは天国の体験について、次のように書いています。
「十四年前、第三天にまで引き上げられました。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存知です。楽園にまで引き上げられ、口にするのも畏れおおい言葉、人間には語ることが許されていない言葉を聞きました。」(二コリ12・2—4)
「第三天」とは、当時の人々が考えていた「最も高い天」のことで、今流に言えば天国でしょう。「楽園」と訳されている言葉は、「パラデイソス」というギリシア語で、パラディソ(楽園)の元になった語です。
このパウロの言葉から、パウロは天国を体験していたと言えそうです。体験の程度は分かりません。また天国の具体的な様子についても、何も語っていません。
パウロの霊的な体験の中で、もっとも凄まじかったものは、ダマスコにおける主イエスとの出会いの体験です。パウロは、それが神の栄光の輝きの体験だったと述べていますが、この出会いは、神の領域がどれほど凄まじいものであるかを、パウロに体験させました。同様に、第三天の体験も、神の領域の凄まじさをパウロに焼き付けたものと思われます。
パウロの主との出会いの体験、また天国の体験は、パウロをキリストに夢中にさせました。キリストが何ものにも代え難い方であることをパウロは得心しました。また、こうした体験はパウロから「死の恐怖」を取り除きました。
パウロは死を恐れません。「死ぬことは利益です」(フィリ1・21)と言い切ります。また「生き続ければ、実り多い働きができますが、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望します。このほうがはるかに望ましい」(フィリ1・22—23)とも言い切ります。
束の間の体験であっても、神の領域を体験したパウロは、死を全く恐れません。キリストご自身が死に打ち勝ち、栄光に輝く神の国で、パウロを待っておられるのです。その栄光の凄まじさを垣間見たパウロは、その輝きを生涯忘れることができませんでした。
そんなパウロが、安易に死に傾くことなく、幾多の困難辛苦に直面しながらも宣教に邁進したのは、愛ゆえでした。ひたすら主の愛に応えるためでした。パウロを愛し、パウロのために死んでくださり、今は神の領域の凄まじさに包まれた主に対する愛ゆえでした。