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これってどんな種?

再びという種 主の変容(マタイ17・1〜9)

 英語の単語の中の接頭語で「re〜」というものがついている言葉があります。例えば、「refresh」とか「restart」とか「reset」というように、「再び○○する」と使うような単語です。私たちは、罪を犯しておん父から離れてしまっても、「再びおん父に近づく」こと繰り返しをしながら歩んで行っているような気がいたします。私たちは、日常の何気ない生活の中でおん父のアガペの愛に気づき「再びイエス様とともにおん父の方に進んで」行くことかができたらいいですね。

 きょうの典礼は、「主の変容」ですしみことばも、イエス様が弟子たちの前で変容される場面です。この箇所は、他の「マルコ福音書」「ルカ福音書」にも書かれてあって、読み比べてちょっとした違いを味わってみるのもいいかもしれません。

 みことばは、「6日の後、イエスはペトロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山にお登りになった」という言葉で始まっています。この「6日の後」というのは、初めてご自分がどのような殺され方をされて、3日後に復活するか、とイエス様が弟子たちに告知してからの日数です。弟子たちは、このイエス様の話を聞いた後、どのような気持ちで過ごしていたのでしょう。特に、ペトロは「サタン引き下がれ。お前は、わたしをつまずかせようとしている。お前は神のことではなく、人間のことを考えている」(マタイ16・23)と言われたのです。きっと、他の弟子たちよりもかなり落ち込んでいたことでしょう。

 弟子たちは、イエス様の受難の告知を聞いたショックで肝心な【3日目に復活する】という言葉を理解できてなかったようです。イエス様は、そんな彼らに対して「ペトロとヤコブとその兄弟ヨハネ」だけを連れて高い山にお登りになられます。この3人は最初にイエス様から声をかけられた弟子たちですが、なぜかアンデレだけは、彼らと共に呼ばれず他の弟子たちと残されています。他のみことばの中でも、アンデレだけは、残される場面がたびたび出てきています。もしかしたら、アンデレは、イエス様から連れて行かれた3人の弟子たちと残された弟子たちの間に立って緩和する役目だったのかもしれません。

 さて、イエス様は山に登られると弟子たちの前で「顔は太陽のように輝き、衣は光のように白く光り」ます。この姿は、マタイ13章に出てくる『天の国の喩え話』の中で「正しい者たちは天の国で太陽のように輝く」(マタイ13・42)とありますように【天の国】の姿と言ってもいいのかもしれません。イエス様の変容は、弟子たちに【受難】だけではなく【復活】して【天の国】の姿を伝えるという意味があったのではないでしょうか。

 イエス様が変容されると、モーセとエリヤが現れて語り合います。モーセとエリヤは、旧約を代表する「律法と預言者」で『旧約聖書』全体を表しているようです。マタイ福音書では、彼らがどのような会話をしていたかということが書かれてありませんが、ルカ福音書には「イエスがエルサレムで成し遂げようとしておられる最期について語り合っていた」(ルカ9・31)とあります。イエス様の変容の目的は、復活後の【天の国】の姿を現すとともに、【受難と復活】を弟子たちにも共有することだったのかもしれません。

 ペトロは、そのような大切な会話をしている3人の間に口を挟んで「主よ、わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです。お望みなら、わたしはここに3つの仮の庵を造りましょう。一つはあなたのため、……」と言います。ここに、ペトロの人柄が出ているのではないでしょうか。ペトロは、この【素晴らしい】状態をずっと保ち続けたいと思ったのでしょう。ペトロこの神体験を手紙の中で、「わたしたちは巧妙な作り話に従ったのではありません。……主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山でイエスとともにいたとき……」と言っています。ペトロにとってこの神体験は、宣教の中での【柱】となったのではないでしょうか。

 しかし、そのような素晴らしい体験は、長く続きません。ペトロがまだ言い終わらないうちに、光り輝く雲が彼らを覆い「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者。彼に聞け」というおん父からの声がします。残念ながらペトロはまだこの時、【主の復活】について理解できずにいたのです。ですから、おん父は、ペトロが言い終わらないうちに雲の中から彼らに声をかけられ、「本当に大切なことは、素晴らしい神体験ではなく、【彼に聞け】ということですよ」と伝えられたのではないでしょうか。

 私たちにとっても、素晴らしい神体験があるかもしれません。例えば、洗礼や堅信、司祭の叙階や修道者の誓願、他にも、黙想会や教会での分かち合いなどがあります。しかし、それらの【素晴らしい体験】(山での体験)だけに留まるのではなく、大切なことは、【日常の生活】(山から降りた状態)でも、イエス様の【ことば】を感じて【聞く(聴く)】ことではないでしょうか。まず、私たちは、イエス様の【ことば】を聴くために、心を開き、耳を澄ませるとともに、頂いた恵みを【再び】日常の生活に生かすことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 今を生きるという種 年間第33主日(マルコ13・24〜32)

  2. 僅かな献金という種 年間第32主日(マルコ12・38〜44)

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