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みことばの響き

一番の宝は? 年間第17主日(マタイ13・44~46)

 今日の箇所の冒頭に「畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」(マタイ13・44)とあります。持ち物をすっかり売るほどのいちばんの宝は私たちにとって何でしょうか。

 かれこれ24年前になりますが、1999年7月14日、当時の管区長だった立石幸雄神父様が亡くなりました。69歳。当時、私は神父様の秘書をしていたこともあり、いろいろな負担をかけ、ストレスを加えたかもしれません。

 神父様はその年の5月中旬、胸部動脈瘤で都内の病院に入院しました。入院して何度となく見舞いに行きましたが、ある時「神父さんにとって、入院して一番寂しいことは何ですか」と尋ねてみました。私は「訪問客が少ないこと」「退屈なこと」などが答えかなと思っていたら、「ご聖体を毎日いただけないこと」と。なるほど、長年、修道生活を送っている身でもあり、聖体が自分の生涯にとって欠かすことのできないものだという気持ちを察するとともに、しばしば聖体を運ばなかったことに申し訳ない気持ちになりました。

 神父様の洗礼名はペトロですが、修道名はタルチシオです。タルチシオという聖人は8月15日にお祝いしますが、いつも教会では聖母被昇天をお祝いするので、目立たない聖人です。この聖人は聖体のために殉教した人です。そんな修道名をいただいている方だからこそ、聖体が自分にとって一番宝に感じていたのだなあとつくづく思いました。7月9日に手術をしましたが、その前日の午後、病者の塗油を授けてくれと頼まれましたので、病院へ行きました。本人は亡くなる気持ちはなかったのでしょう。「(冗談めいたような口調で)もしかしてのことを考えて、病者の塗油を授けてくれ」と。「もしかして…」というのが耳に残っています。神父様はゆるしの秘跡と病者の塗油を受け、そして聖体拝領。聖体をうやうやしく受ける姿に、聖体が一番の宝なんだと授けながら思いました。手術を受けた後、意識が戻ることなく7月14日に生涯を閉じていきました。

 今日のみことばやいろいろな人の人生を通して、いちばん大切なものを考えてみたいものです。

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