42 「どんな訓練でも、そのときは、楽しいものでなく、むしろ苦しいものですが、後になると、この訓練は、それによって鍛えられて、正しい生活を送る人々に、平和の実をもたらします」(ヘブライ12,11 )。
43 救いの苦しみと忠実な司祭の苦しみは合致するところがある。使命の面で結ばれている人たちは、世をあがなうという使命に関係ある試練にも苦しみにもともに結ばれている。「あなたは聖なる十字架とあなたのしを通じて世をあがなわれた」。忠実な司祭はみな、カルワリオまでイエスといっしょに行く。
しかし、栄光を受けるときも友となるだろう。「あなたがたがわたしたちの苦しみを分かち合っているように、慰めをも分かち合っているのだ」(Ⅱコリント1,7)
44 イエスは「門の外で」苦しみを受けた。のろわれた場所で、外に放り出され、市民としての慰めも受ける資格がない者として、外に引きずり出され、除け者にされた。みんなから侮辱された。知識人からも、権力者たちからも、司祭たちからも、一般人からも虐待された。
あらゆるとがめを受けたけれども不正行為については訴えられなかった。
イエスは内部からも外部からも、あらゆる苦罰を身に受けた。おん父でさえ、黙っておられる。
最も屈辱的な責め苦を受けながら、「すべては終わった」と言って亡くなられた。
イエスは、自分のためだけに考案された責め苦、しかも、まるで異例の犯罪人用に考えだされた責め苦を受けたのである。すなわち、いばらの冠、三つの法廷、無罪とはみなされながらも有罪判決を受けた。多くの奇跡をしたから、逮捕されないうちに有罪の宣告を受けた。それは、怨みからであった。それにしてもイエスは復活するのではないかとひどく恐れられていた……。実際におん父のみ前で全人類の罪を背負われた。
こういうことは、司祭にもおこる。その人が司祭という名にふさわしい者であればだが……。本物の司祭であれば、みんなから追い出されるはずである。「城門の外で刑罰を受けた」。みんなこぞって司祭に反対した。それにもかかわらず、司祭は自分のためにも、その同胞のためにも罪をつぐなわなければならないと確信している。
これほどまでに不評な十字架刑は私たちの手本である。みんなから非難を浴びせられても、聖なる司祭はそれを誉れと思う。世からほめそやされないように気をつけなさい。「人々があなたがたをののしり、……あなたがたに対して偽りを言い、あらゆる悪口を言うとき、あなたがたは幸いである」(マタイ5,11)。郊外で十字架にかかったイエス・キリストは、道・真理・生命である。町の中に残っていた人たちは、どんな者か? 偽り、悪徳、堕落の人たちである……。司祭は迫害された者か? 迫害は、しばしば、りっぱな司祭の誉れであり、紋章である。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」(ヨハネ15.18-19)
45 世から捨てられるということは、(罪に対する)盾、防衛力となり、救いへの保証ともなる。世から捨てられるとことによって、私たちは自己放棄、奮発、純白、正直、神への愛、離脱の状態に置かれる。キリストの十字架を喜んでいただければ、それは敵に対して防備をかためることになり、確実に神に照準を合わせることになり、祈りも力強くなり、天国の喜びを、先取りしながら生きることになる。司祭の中に新しい力が生まれ、こう繰り返し言われる。「今、この世の裁きが行われる。今、この世の支配者が追い出される」(ヨハネ12,31 )と。パウロがイエスについて書いていることは司祭について司祭について実現される。「死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです」(フィリッピ8,11)
師イエスに向かって
46 わたしは「わたしたちも、……宿営地の外に出て、みもとに行こうではありませんか」(ヘブライ13,13 )ということを実行するために次の三つの天について黙想します。
(1) 一つは司祭の道です。「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか」(ヘブライ10,22-25)
(2) 聖パウロは英雄的な司祭と預言者たちを手本にあげています。かれらは「信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、ライオンの口をふさぎ、……また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました」(ヘブライ11.33,36-38 )。英雄的な司祭たちによって、いつも教会は光りを放ってきました。そして教会はキリストの傷を誇りとするように彼らを誇りとしているのです。
(3) 信頼して進め! 「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」(ヘブライ12,1-4)
ロザリオの祈り、ミゼレレ。
・『霊的生活の模範 使徒聖パウロ』(ヤコブ・アルベリオーネ著、池田敏雄訳)1987年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。