ルカ福音書の描き方
聖母月である5月の終わり、5月31日に、わたしたちは「聖母の訪問」の祝日を祝います。「聖マリアの訪問」ではなく、「聖母の訪問」と呼ぶことにも目を留めたいと思います。神の使いのお告げを受け入れたことによって、すでにマリアの胎内に神の子イエスが宿っていたこと、だからすでにイエスを宿した「母」マリアがエリサベトを訪れたということです。このことは、マリアを迎えたエリサベトの言葉にも表れています。「あなたは女の中で祝福された方、あなたの胎内の子も祝福されています」(ルカ1・42)。
マリアのエリサベト訪問については、新約聖書ではルカ福音書だけが記しています。直前の大天使ガブリエルの言葉をマリアは必ずしも十分に理解できたわけではないでしょう。
しかし、ガブリエルがエリサベトのことを告げ、「神には何一つおできにならないことはない」(ルカ1・37)と述べたことに、マリアは反応します。マリアは、この恵みを受けたエリサベトのもとに「急いで」向かわないではいられなくなったのです。
これはルカ福音書が強調する特徴の一つです。神からの言葉を聞いた者(あるいは思い出した者)は、内側から燃やされ、証しをするために動かなくてはいられなくなるのです。
エリサベトのもとでのマリア
では、マリアはエリサベトのもとで何をしたのでしょうか。教会の伝統では、このマリアの訪問を年老いて子どもを宿したエリサベトへの奉仕のためであったと理解します。
この伝統的理解はすばらしいものです。しかし、ルカ福音書を率直に読むと、そのようには記されていません。ルカ福音書が記すのは、マリアがエリサベトのもとを訪れたときの、エリサベトの聖霊に満たされた言葉。そして、それに答えてマリアが述べた賛美の言葉です。
その後、「マリアはエリサベトのもとに三か月ほど滞在した後、家に帰った」(1・56)とルカ福音書は記します。ルカ福音書は、マリアがエリサベトに奉仕したとは記していません。もちろん、それをしなかったというつもりはありません。しかし、ルカ福音書が記していることを考えれば、むしろそれは二人の大きな恵みを受けた女性の分かち合いの三か月間だったのではないかと思うのです。どちらもこの恵みの意味を十分に理解していなかった中で、その驚くべき体験を分かち合うことにより、徐々にその意味を理解していったのだろうと思います。その頂点が「マリアの賛歌」なのでしょう。ルカ福音書が記す「聖母の訪問」の描写から、わたしたちが奉仕のすばらしさとともに神の恵みの体験を互いに分かち合うことのすばらしさにも気づいていくことができればと思います。