お葬式の際、線香を消す時、「息を吹きかけるな」と注意されたりします。そのためでしょうか、祭壇にあるローソクを誰かが息で吹き消している様子を目にすると、この習慣が脳裏をかすめたりします。こうした習慣はどこから来たのでしょうか。仏教との関連があるようで、「人間の口はとかく悪業を積みやすく、けがれやすいものなので、仏様に供える火を消すには向かない」という理由からのようです。吹き消す仕草は、日本の慣習に合わないのかもしれません。
これとは対照的に、イエスは霊を送るに際して「息を吹きかけて」います。この場合、息を吹きかける動作にはいったい、どんなイメージが込められているのでしょうか。例えば『創世記』をひもどいてみると、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と記されています。神が息を吹き入れることで人は生を得ていきます。同様にイエスが「息を吹きかける」のは、今日の福音にも登場します。「聖霊を受けなさい」(ヨハネ20・22)の箇所で、そこにはイエスが新しい命を与えるのに共通した内容を見い出すことができます。
これとは反対にイエスが「頭を垂れて息を引き取られた」(ヨハネ19・30)<直訳すると「霊を送った」>のように、息が切れることで死をイメージします。人が亡くなる時、最後には大きく息を吸って生涯を終えていくように…。「息を吹きかける」とは、生と死の両面がありますが、いずれにせよ「息」は「生き」と関係しています。
聖霊降臨にあたり、弟子たち一人ひとりの上に聖霊が降っていきますが、今日の福音のようにイエスは息を吹きかけて「聖霊」を与えてくださいます。特別な機会だけではなく、日常の出来事の中で、聖霊の恵みが与えられていることを実感したいものです。