19 「大司祭なる者は皆、人間の中から選ばれて、人のために神に使える者として任命された者です。その務めは供え物と、罪をあがなういけにえとをささげることです」(ヘブライ5,1 )
20 司祭職の中で最も大切なのは「罪のためのいけにえとそなえ物をささげること」であつて、宣教することでも、事業を起こすことでもない。
司祭の任務は「神に関係ある事柄」であって、科学者や芸術家や政治家の仕事を優先的にすることではない。「軍務に服している者は、日常生活に煩わされずに、ひたすら自分を部下にしてくれた上官の気に入ろうとします」(Ⅱティモテオ2,4)。
ミサは司祭にとって最も大切な務めである。ミサはその日の中心でなければならない。天国においても煉獄においても、全教会においても、全世界においてもミサをたてる権利を行使する。ミサは常に「いと高き所に神の栄光」をささげることであり、いつまでも「善意の人々に平和」を与えることである。ミサは最大の慰めをもたらし、人類に最も確実な救いをもたらす。
司祭のもう一つの職務は霊的指導をすることである。イエスについてこう言われる。「舟を降りるとき、イエスは大勢の群衆をごらんになり、牧者にない羊のようなそのありさまを、哀れに思い、いろいろと教え始められた」(マルコ6,34)。21 司祭は人々のためにいる。司祭は、体の健康の面倒を見るためにいるのではないし、この世の学問を教えるためなどにいるのではない。それよりも永遠の救いに関する人間同士の関係、永遠に救いに必要なものや神への義務のためにこそ、要するに「神に関係ある事がら」にかかわるためにこそ、司祭はいるのである。人々が司祭のためにいるのではなく、司祭こそ人々のためにいる。
次の文章は耳が痛い。「すべての人は、イエス・キリストに関係あることでなく、自分の利益になることを求めている」そしてパウロは自分のことについて、こうあかしを立てている。「実は、私も多くの人々が救われるために、自分の利益ではなくその人々の利益を求めながら、すべての事についてすべての人に喜ばせようと努めているのです」(Ⅰコリント10,33 )。
これとは逆に、私利を図るために修行する生活形態がある。おそらく失敗を重ねたがゆえであろうか、人間の心を抑圧する悲観主義もあるし、一方的に自分勝手な仕事をする人もいる。
みんなのために役立つ人となり、心の触れ合いをもちながら生き、大衆の心をつかもうとし、罪人や現代人の痛みを分かつ心をもたなければならない。
22 人々に共感し、人々を理解しなければならない。「この大司祭は、わたしたちの弱さに同情できないようなおかたではありません。罪を犯さなかった以外は、すべてにおいて、わたしたちと同じように試みに遭われたのです」(ヘブライ4,15)。
これと同じ感情をもたなければならない。「私は人を救うために来た」。
謙遜な心で「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません」(ヘブライ5,2-3 )
悩める人々を慰めなければならない。誘惑にあっている人たちや罪のない人たちを支援し、守ってあげなければならない。罪びとの心をかちえなければならない。ファリサイ人的なやりかたで、人をけっしてやっつけてはならない。その反対に、イエスと同じように、これをなおしてあげなければならない。「私は復活であり、いのちである」。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。(ヘブライ 2,17-18)
師イエスに向かって
23 私の役務にはあまりにも活動が多く、祈りが不足していました。自分自身を信じすぎ、危険を恐れませんでした。多くの場合、私こそ矯正すべきなのに、ほかの人を矯正してきました。弱いこともたびたびあり、それから乱暴なこともたびたびありました。もっと素朴であり、ずるさは少なくしたいものです。組織よりも人々のことがもっと大切です。すべての人のためにと任命されたのに、いつも、すべての手段を、とりわけ謙遜を心に留めていませんでした。
私は召命があるものと確信しています。しかし、神の招きには当然なこともこたえてきませんでした。イエスよ、あなたのみ心をつねに自分のものとしてきませんでした。
聖師、私はあなたのような者になるべきなのに。
聖師、あなただけが目立つべきなのに。
聖師、善いことは、みんなあなたのものです。
聖師、私は役に立たないしもべです。
聖師、私は害を及ぼすしもべです。
聖師、あなたにのみ栄誉が与えられますように。
聖師、さげすみはすべて私に。
聖師、私に悔い改めの余裕をお与えください。
聖師、私へのさげすみを増やしてください。
聖師、あなたのご受難に私を加えてください。
聖師、私の罪に見合うだけの苦しみを与えてください。
聖師、私のわいで犯された罪をつぐなうのに必要な苦しみを与えてください。
聖師、まかれた種が育つために負担しなければならない苦労を与えてください。
聖師、苦しみと祈りをもって、(私の)霊的な子どもたちすべてを助けることができるようにしてください。
聖師、私は無能な者ですから、すべてをミサ聖祭によって得させてください。
ロザリオの祈り、ミゼレレ、「神の小羊、世の罪を除きたもう主よ……」。
・『霊的生活の模範 使徒聖パウロ』(ヤコブ・アルベリオーネ著、池田敏雄訳)1987年
現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。